0400.党首らの消息
「先生、もしよろしければ、慰問へ行って下さいませんか?」
ソプラノ歌手のオラトリックスが声に出さず、口を「アミトスチグマ」と動かした。唇を読んだラクエウスが頷く。
「……と言うことは、あれで移動するのかね?」
「えぇ。差し支えなければ。先生の竪琴が一番有難いんですけど」
オラトリックスが申し訳なさそうに言い、スニェーグが苦笑して後を受けた。
「私だと、ピアノを持ち運ぶのが大変ですからね」
容れ物が【無尽袋】ならグランドピアノでも持ち歩けるが、袋は使い捨てだ。最近は、ラクリマリス王国の湖上封鎖の影響で値上げが続く。
航空機のネモラリス―アミトスチグマ直行ルートは、封鎖範囲に含まれないが、議員宿舎からの逃亡者が空港へ行けば、軍に捕えられる。だが、【跳躍】の術を使えば、捜査網はザル同然だ。
ネモラリス政府は少なくとも、キルクルス教徒のラクエウス議員が、魔道機船や魔法で移動するとは思わないだろう。
裏をかくにも、魔法で連れて行ってもらうのがいいに決まっている。そもそも、あの雨の夜、宿舎からの脱出でも若手議員クラピーフニクの術に助けられたのだ。
……今更、何を。
ピアノ奏者とソプラノ歌手が、竪琴奏者でもある国会議員を不安な眼差しで見詰め、答えを待つ。ラクエウス議員は、白髪頭を小さく振って自嘲した。信仰より大切なものに気付いたのだ。
……己が逃げる為なら術を受け容れ、他人の為には断るなど、それこそ身勝手千万。人としてあるまじき、浅ましい行いではないか。
ラクエウスは、ともすれば信仰に傾きそうになる心を引き留め、リャビーナ市民楽団の二人に了承の意を示した。楽団員の二人が喜びに輝く顔を見合わせる。オラトリックスが明るい声で言った。
「では、合唱団のみなさんにお伝えしますわね」
「先生がいらっしゃれば、現地のみなさんが助かりますよ」
「……助かる?」
難民が喜ぶではなく、みなさんが助かるとの言葉に首を傾げる。スニェーグが食卓に身を乗り出し、小さく手招きした。
ラクエウスが向かいの白髪頭に顔を寄せる。スニェーグは、口の横に手を当てて囁いた。
「難民キャンプのひとつに、アサコールさんがいらっしゃいます」
「……!」
両輪の軸党の党首だ。魔哮砲の使用に反対し、与党の多数派とネモラリス軍の手で議員宿舎に軟禁された。
秘かに外部と連絡を取り、ラクエウスら無所属や他党の議員にも、脱出の機会を与えてくれた。宿舎脱出後は散り散りになり、スマーフ議員のように報道で死亡を確認できなかった者の安否は不明だ。
スニェーグによると近頃、ネーニア島の前線から遠く離れたネモラリス島東端のリャビーナ市でも、兵を頻繁に見かけると言う。逃げた議員の捜索にしては、軍服姿で堂々と街を歩くのは妙だが、ラクエウス議員は、窓にもなるべく近寄らないようにした。
「……他の方々は?」
「ひとつ所に固まると危険なので、分散しているそうです」
ラクエウスの問いにスニェーグが囁きで答える。
ここはスニェーグの自宅だが、どこから【敏い耳】の術で盗み聞きするかわからない。議員宿舎には、術による盗聴、盗視防止の結界があったが、普通の民家にはそんなものはない。
【歌う鷦鷯】学派のソプラノ歌手オラトリックスが、口許に両手を添え、口を大きくはっきり「明後日、出発」と動かした。唇を読み、ラクエウスが目で了承の意を表す。
三人同時に席を立ち、荷物をまとめに掛かった。
アミトスチグマ王国は湖南地方の東端に位置し、内陸部は広大なアミトスチグマ大森林に覆われる。大都市は北西部の平野にあった。
難民キャンプは、平野の端……森の外縁部に幾つも設けられた。戦禍を逃れ、無事に辿り着けたネモラリス人の大半は、力ある民だ。アミトスチグマ政府やフラクシヌス教団、国連機関や人権団体などの支援で、ある程度は何とかなるようだが、決して安楽な生活ではない。
アミトスチグマに本社を置く湖南経済新聞などの報道と、スニェーグが持ち寄る支援者の情報では、医療と食糧の支援が著しく不足すると言う。
……力なき民の儂が行って、何故、皆が助かるのだ?
迂闊に疑問を口に出せないまま、出発の日を迎えた。竪琴の先生ハルパトーラに変装し、着替えなど僅かな荷物を持って庭へ出る。
早朝とは言え、八月の外気は蒸し暑かった。
半世紀の内乱で焼失を免れ、ビルの谷間に取り残されたスニェーグ宅は、日が射す時間こそ短いが、あまり風が通らず、熱気が澱む。
「さあ、先生、参りましょう」
「お気を付けて」
迎えに来たオラトリックスと手を繋ぎ、近くの公園までスニェーグの見送りを受ける。ラクエウスは魔女の術に逆らわず、ゆっくり息を吐き、肩の力を抜いた。
オラトリックスが良く通る声で呪文を唱える。目眩がして、ラクエウス議員は思わず瞼を閉じた。二人の姿がビルの影に覆われた公園から消える。
魔力の制御符号「力ある言葉」の同じ文言が、何度も耳を右から左へ抜けた。
不意に頬を撫でる風が冷たくなった。
老婆に扮したラクエウスは、瞼を恐る恐る開けた。
屋根も壁も真っ白な家の前だ。足下は瑞々しい香草が茂り、涼しい風にそよぐ。振り向いて、風の来る方を見遣る。なだらかな丘に同じような白い家々が並び、その向こうに広がる湖が青く輝いた。
「ここが、難民キャンプなのかね?」
「いいえ、ここはアミトスチグマの夏の都にある支援者の方のおうちです」
オラトリックスは、老婆に変装したラクエウスを玄関へ案内する。二人が扉に立つより先に人が出てきた。
「ようこそお越し下さいました。暑いでしょう、こちらへ」
緑髪の若い女性に招き入れられ、二人は白い家に足を踏み入れる。すっと汗が引いた。スニェーグ宅と同じで家に掛けられた術で涼しい。
竪琴以外の荷物を使用人に預け、応接間へ通される。
リャビーナ市民合唱団のテノール歌手が、ソファから立って二人を迎えた。
「お二人ともご無事でしたか。よかった」
「おはよう。君も無事で何より」
「お待たせしました。後の二人もそろそろ着く筈ですから、もう少しお待ち下さいね」
後の二人を待つ間、湖の民の女性が今日の予定を説明した。
午前中はここで打合わせ、午後からは練習。夕飯後は、ビデオメッセージの原稿を作る。
「ビデオメッセージ?」
「はい。公開の時期は未定ですが、先に収録だけお願いします」
寝耳に水のラクエウスが三人を見回す。テノール歌手も事情を知らないらしく、湖の民の女性を見た。ソプラノ歌手オラトリックスが湖の民に代わって答える。
「ハルパトーラ先生にはBGMをお願いします。詳しくは、人数が揃ってから、打合わせの折りに」
「そ……そう」
変装後の偽名で呼ばれ、老婆らしい声音で答える。湖の民の女性は、お茶をお持ちしますと告げて応接間を出た。
「打合わせには、誰が?」
「私たち歌手は、キャンプの代表者の方と歌詞の最終調整、先生は支援者の方々とビデオメッセージの件で打合わせです」
別行動に不安を覚えたが、従う他ない。
三人で近況を話し、後の二人を待った。
程なく、湖の民の女性と共にアルトとバスの歌手も応接室に姿を見せた。湖の民は、歌手四人に新しいお茶を淹れ、ラクエウス一人を伴って応接室を出た。
次に案内されたのは、談話室らしい。広々とした卓にお茶の用意が整えられ、十人掛けの半分が埋まる。
「それでは、ごゆっくり」
湖の民の女主人は、場所を提供するだけらしい。一礼して扉を閉めた。
☆あの雨の夜、宿舎からの脱出……「0277.深夜の脱出行」参照
☆アサコールさん……「0272.宿舎での活動」参照
☆竪琴の先生ハルパトーラ……「0306.止まらぬ情報」参照




