0394.ツマーンの森
蝉の声に負けぬよう、相棒のムラークが大声で聞く。
「さてと、ここからはラクリマリス王国だ。どこ行く?」
「どこって、ここから順番に見て行くしかないだろう」
「はいはい、いつも通りね」
赤毛の魔装兵ルベルが、木立に入りながら無愛想に答えると、黒髪のムラークは一応、道の脇に寄って周囲を警戒した。
クブルム山脈の中腹からは、南の麓に広がるツマーンの森が、肉眼でもよく見える。冬にネモラリスとアーテルの間で戦争が勃発してからと言うもの、国境の山道を通るのは、ネモラリス共和国から逃れる戦争難民と、ラクリマリス王国からの救援物資を運搬するトラックだけになった。
警戒対象は、山に棲む魔物や魔獣だ。
水と食糧、野営用ポンチョ、傷を癒す魔法薬、採取した素材を入れる布袋など、僅かな品の入った背負い袋を足下に置き、ルベルは呪文を唱える。
「害意 殺気 捕食者の姿 敵を捕える蜂角鷹の眼
敵を逃さぬ蜂角鷹の眼 詳らかにせよ」
【飛翔する蜂角鷹】学派の【索敵】の呪文だ。
視覚などを拡大し、「敵」を探す術だが、敵以外のものも勿論、肉眼で見え、霊視力でも視える。魔装兵ルベルら、能力の高い哨戒兵は、ネモラリス島南沖からでも、遠く、ネーニア島の南西沖まで見透せた。
遮蔽物の少ない上空や湖上の哨戒なら、その超遠距離でも何とかなるが、森に隠れたものを探すには、細かい視点の切替えが必要だ。距離はなるべく近い方が、小回りが利いて探しやすい。
魔装兵ルベルは、黒髪の相棒ムラークに背中を任せ、捜索に専念した。ザカート隧道の南出口は、クブルム山脈西端の山腹に穿たれる。
曲がりくねった舗装道路の先には、無人の野が広がる。
半世紀の内乱で灰燼と化し、放棄された南ザカート市跡を抜け、国道を辿れば、ずっと先に市壁に囲まれたモールニヤ市がポツンと見える。【索敵】の術で拡大した視力なら、モールニヤ市の道端に落ちたイヤリングの片方でも視界に収められるが、ルベルは東の森へ目を向けた。
……あんなモノが街へ行ってたら、とっくに大騒ぎになってるよな。
ネモラリス軍は各方面から情報収集するが、今のところ、それらしき情報は掴めなかった。
半世紀の内乱後、ラキュス・ラクリマリス共和国は三カ国に分裂した。北からネモラリス共和国、ラクリマリス王国、アーテル共和国。ネーニア島は、クブルム山脈を国境と定め、ネモラリスとラクリマリスが領有した。
土地勘があれば、【跳躍】などの術で移動できる。
国境に検問などを置いても用を成さないばかりか、力なき民への差別を助長すると批難の的になる為、両国とも、一兵も配置しない。
共にフラクシヌス教を信仰し、比較的良好な関係を築き直せたからとの理由もあるが、ネーニア島を半分ずつ囲む【跳躍】除けの結界を巡らせるのは、不可能だからでもあった。
緑の濃い木々が、クブルム山脈から南の平野へと続くゆるやかな傾斜を下り、ツマーンの森を成す。
昼なお暗い木下闇、そこに蠢く小さな魔物が、蝉を捕えて貪り喰らう。
魔装兵ルベルは、少しずつ【索敵】の眼の焦点を先へ送った。木々を透かし、この世の野生動物たち――青々と茂る葉や果実を食む者、樹間を行き交う色鮮やかな虫を捕える者、草食の獣を捕食する者など――の活き活きと暮らす様子も間近に見える。
相棒の魔装兵ムラークは、ルベルが夜の闇より暗い塊を探すのを妨げぬよう、無言で付近を警戒した。
山中の舗装道路には、往く者も来る者もなく、蝉と鳥の他、生き物の声はない。傍目には、赤毛のルベルが眼前の幹をぼんやり眺めるようにしか見えないが、その眼は遙か先の森林内を探索中なのだ。
……いっそ、反対側の湖西地方に渡っててくれないかな。
ネーニア島が浮かぶラキュス湖は、世界最大の塩湖だ。
西岸地域は、三界の魔物との戦いで荒廃し、当時存在した国々は全て滅びた。その瘴気に惹かれた魔物や魔獣が蔓延り、数千年経った現在も、国が存在しない。
時折、古代の遺物や資源などを求め、彼の地に足を踏み入れる者はあるが、生きて帰った者は少なかった。
言葉を交わすことなく、森の奥へと視線を伸ばす時間が過ぎる。
蝉の声が止んだ。
「あれっ?」
「みつかったのかッ?」
ムラークが勢い込んで聞いた。
「いや……居ないんだ」
「何だ……じゃあ、何だ?」
落胆するムラークに、ルベルは森の奥へ目を凝らしたまま答えた。
「雑妖が居ないんだ」
「雑妖? それがどうし」
既に日が傾きかけ、木下闇は一層深い。雑妖は結界や清めのない場所なら、どこにでも涌く。穢れを喰らって増殖するが、定まった形すら持たない存在は希薄で、霊視力がなければ視えず、日の光を浴びただけでも消えてしまう。
魔法戦士である二人には、取るに足りない存在だが、戦う力のない者にとっては煩わしい存在で、守る力さえない者には充分な脅威だ。
「ホントに一匹も居ないのか?」
「視えないな」
ラキュス湖南地方では、力なき民に時折、半視力――霊視力を持たぬ者――が産まれる。それ以外の人々には、当たり前の存在として雑妖の姿が視えた。
「じゃあ、やっぱり」
相棒の声が期待に明るくなる。ルベルは慎重に視線を巡らせながら言った。
「いつ通ったのかわからないし、そんなすぐみつかるとは思わない方がいいぞ」
何かあれば【跳躍】で北ザカート市へ戻って報告する。何もなくても十日で交代だ。捜索中は自力で水と食糧を調達し、森に潜伏する。
国境があって無きが如しとは言え、アーテル共和国と交戦中のネモラリス兵が、ラクリマリス王国領での活動を知られるのは、幾らなんでもマズい。
魔獣由来の素材採取業者のフリをする為、魔装兵用の軍服ではなく、普通の服に偽装した魔法の鎧を着て来たのだ。
「今日はもうムリだ。そろそろ野営の準備をしよう」
魔装兵ルベルは、相棒に声を掛け、【索敵】の術を解いた。
ザカート隧道の中なら、魔物に襲われる心配はないが、万が一、車や徒歩の通行人が来ると厄介だ。
二人は森に分け入り、ルベルが捜索中に目を着けた場所へ向かった。樫の大木の根元に荷物を置く。
「此の輪 天なり 六連星 満星巡り
輪の内 地なり 星の垣 地に廻り
垣の内 呼ばぬ者皆 立ち去りて
千万の昆虫除けて 雑々の妖退け
内守れ 平らかなりて 閑かなれ」
樫を中心に円を描き、魔装兵ムラークが【簡易結界】を敷く。ルベルはその間、近くの木に巻き付いた蔓から熟れた果実をもいで集めた。
堅パンと果実、水だけの夕飯を終える頃には、すっかり日が沈み、梢の隙間から星が瞬くのが見えた。
虫の音と、ネズミなどの小動物が草や落葉を踏む音、遠くから微かに獣の遠吠えや、魔獣の吠え声も聞こえる。夜の森に人の気配はなかった。
二人は野営用ポンチョに包まり、樫の幹に背を預けた。闇に目を凝らすが、雑妖は視えない。
「……やっぱ、居ないな」
「あぁ」
ルベルは相棒に肯定を返し、その意味を考えた。
雑妖はどこにでも涌く。そこに居るなら、霊視力の捉えた姿が闇に浮かんで視える筈だ。
実体はなく、定まった形を持たない。この世の穢れを喰らって育つ。森の中では虫や動物の死骸、朽木などから大量に生じるが、ここには居なかった。




