0373.行方不明の娘
司祭によると、六月の終わり、最後に教会を訪れた時、ウィオラは一人だったと言う。
「おや、赤ちゃんはどうされました?」
ワンピースのポケットに両手を入れたまま、ウィオラは表情のない目で祭壇を見上げた。箒作りの報酬として与えられた夏の服は、古ぼけて色褪せ、襟が伸びて胸ボタンがひとつ取れかけてぶら下がる。
長い沈黙の後、ウィオラは目を合わせることなく、抑揚のない声で言った。
「司祭様も……赤ちゃんが心配なんですね」
背を向けて歩きだす。
「司祭様、大変だ!」
「事故です!」
「臨終の祈りを!」
作業員たちが駆け込み、入れ違いにウィオラが駆け去る。ポケットから抜いた白い手首は、くっきり赤くなっていた。
それ以来、ウィオラの姿を目にした者はない。
事故対応の後、司祭は信者の一人に様子を見に行くよう頼んだ。信者は、司祭が細々した雑用に追われる所へ血相を変えて戻った。
「司祭様、大変だ! 赤ちゃんが死んでる!」
団地地区の警察に連絡し、司祭とその信者、警官の三人で仮設住宅を訪れた。
「戸は閉まってたけど、鍵は開いてたから、開けてみたんです」
部屋の隅には、きちんと畳まれた毛布と衣類とタオルの入った紙袋、箒の他は何もない。
赤ん坊が、窓の下で仰向けに転がる。不自然な角度に曲がった首には、赤い痕がある。ウィオラよりずっと太い……恐らく、成人男性の手によるものだろう。
「母親は?」
警官の問いに司祭と信者が答える。
「先程……三時間くらい前に教会へ来たのですが、事故の報せが入ってバタバタする間に、どこかへ行ってしまいました」
「隣の人が何か知ってるかもよ?」
警官はポケットから手帳を取り出し、司祭に聞いた。
「何か変わった様子はありませんでしたか?」
司祭は包み隠さず、ウィオラが礼拝堂を訪れた時の様子を語った。警官が頷きながら書き留める。戸を叩いて呼ばわるが、ウィオラ宅の両隣は鍵が掛かって反応がなかった。
「あら、おまわりさん……司祭様まで」
三人が振り向くと、布袋を手にした中年女性が居た。警官の問いに三軒隣の者だと答える。司祭も、何度か教会で見掛けたおばさんだ。
「私ですか? 今日は朝から小学校で縫物をして、材料がなくなったから、帰って来たんですよ」
仕事の報酬として、この袋と堅パンをもらったのだと、古ぼけた布で作ったよれよれの買物袋を上げてみせる。
「ウィオラがどこへ行ったか、ご存知ありませんか?」
「いえ……教会に居ないんですか? まさか、暑さでどっかの道端に倒れてるんじゃ?」
リストヴァー自治区では毎年、大勢が熱中症で生命を落とす。暑くなり始めるこの時期に倒れる者も多かった。
「いえ、三時間くらい前に一度、来たのですが、すぐ出て行ってしまって」
「今はみんな何か仕事があって、端っこの人以外、朝早くから留守にしてますからねぇ」
「端の人と言うのは、ウィオラの右隣の住人ですか?」
警官に頷き、おばさんは言った。
「夜勤だからまだ寝てますし、うるさくすると怒鳴って暴れるんですよ。どっちがうるさいんだかってんですけど、ウィオラちゃんもそれで、いつも教会へ行ってて……その癖、自分が帰った時は、夜が明けたばっかりでみんな寝てんのに、ガタガタバタバタうるさくしてましてね。でも、ハナシが通じる人じゃないから、みんな諦めてるんですよ。あぁ言うやつこそ、あの火事で……っと」
おばさんは一気に不満をぶちまけ、司祭に気付いて口を噤んだ。警官はウィオラの最近の様子などを聞いて、おばさんを帰らせた。
警官が無線で応援を呼び、司祭が赤子の魂の平安を祈る所へ、端の住人が酒瓶を大事そうに抱えて戻った。
「これか? 給金が入ったからちょっと奮発して、団地の酒屋へ行ってたんだ。誓って、盗んじゃいねぇ」
既に酔った男は、警官に胸を張ってみせた。
「初めまして。私はリストヴァー自治区東教区の司祭ウェンツスです。ウィオラさんをご存知ありませんか?」
「ウィオラ?」
「お隣の女の子です」
「あぁ、あの売女、そんな名前なのか。客の財布でもくすねたのかい?」
「いいえ。彼女はいつも教会で箒作りなどの手仕事をしています。今日は姿が見えないものですから」
司祭は心の中で聖者キルクルスに祈り、男の下衆な答えに静かな声で応じる。男は下卑た笑みを浮かべ、鼻で笑った。
「大方、そんなじゃ足りねぇから、元の商売に戻ったんじゃねぇか?」
男が、戸の前に立つ信者を押し退け、ポケットから鍵を出す。警官が自室に入ろうとする男を呼び止め、今朝から今までどこで何をしていたか、最近、ウィオラに変わった様子はなかったかなど、次々質問を浴びせた。男は全てに澱みなく答え、さっさと部屋へ入る。
鑑識が到着し、一通り調べて赤子の遺体を収容した。
ウェンツス司祭は司法解剖の後、他に立会う者のない小さな葬儀を行い、翌朝、遺灰を山に近い共同墓地に納めた。
一カ月近く経った今も、かつて自治区でよくあったように「望まない赤子を殺して、男と逃げた」などと口さがない噂をする者はあったが、赤子殺しの犯人はわからず、ウィオラもみつからない。
「ウィオラは、そんな子ではないと信じています」
「えぇ。どこかで元気でいてくれるといいんですけど」
「あの時、私が、ウィオラを案じる言葉を掛けていれば」
司祭が、選択を誤ったと悔やむ。この一月、苦い後悔が司祭を苛み続けた。他の信者の前ではいつも通りに振る舞うが、救済事業の件でクフシーンカと二人きりになれば、時折、胸の内を吐露する。
クフシーンカは、その件について掛ける言葉がみつからなかった。
司祭が鑑識から聞いた話では、あの部屋の床には行為の痕跡があったと言う。隣人が言うように、ウィオラが自ら客を引き入れたのか、押し入られたのか。
教会を訪れた際のただならぬ様子では、後者の可能性が高いが、どちらも東地区ではよくあることだ。警察は形式的に通り一遍捜査して、終わらせてしまった。
ラクエウス議員の姉クフシーンカも、仕立屋の顧客や後援会などの人脈を使い、ウィオラの行方を当たるが、手掛かりひとつ得られない。
クフシーンカは、菓子屋たちに運んでもらった材料と、報酬用の保存食の説明だけして団地地区へ戻った。




