0372.前を向く人々
真夏の日差しが、敷かれたばかりの黒々としたアスファルトを灼き、道往く者を炙る。靴のある者もない者も、厳しい暑さを避け、影を選んで歩いた。街路樹のウバメガシはまだ無事だが、腰の高さしかなく、影は小さい。
車窓から見えるリストヴァー自治区の街並は、冬の大火から半年足らずで、すっかり生まれ変わった。
高台から見下ろすと、リストヴァー自治区の東部が汚水を垂れ流していた頃の面影は、殆ど見当たらない。
今は東部の八割方が、区画整理され瓦礫がなくなった更地と、プレハブの仮設住宅、木造モルタルのアパート群、その敷地を囲むウバメガシの生垣で、整然とした街並を成した。
西のシーニー緑地の手前では、鉄筋コンクリートの集合住宅が建てられ、内装工事の職人たちが忙しく出入りする。
集合住宅との間に真新しい二車線道路を挟んで、アパート群、仮設住宅群、その東に広がる太陽光パネルや淡水化プラント、工場地帯の手前には、商店街が建設されつつあり、酷暑の中、作業員たちが汗を流す。
クブルム山脈に近い一角だけが、道路が防火帯となって僅かに焼け残り、半年前までの混沌……バラックが無秩序に犇めき、道らしい道のない生活の塊を留める。
ワゴン車が、リストヴァー東教区の教会敷地にゆっくり入る。ボディには菓子屋の店名があるが、菓子の配達ではない。
菓子屋の女房に支えられ、仕立屋の店主クフシーンカは車を降りた。空調の効いた車を一歩出ると、息苦しい程の暑さが襲う。菓子屋夫婦と金物屋の息子に荷降ろしを任せ、クフシーンカは杖をついて教会の扉を潜った。
平日の午後だが、礼拝堂の席はほぼ埋まる。大部分が女性だが、少数ながら男性も居た。人々は俯いて一心に手を動かし、入ってきた老女に見向きもしない。
礼拝堂に空調はなく、高い天井の下の空気はぬるい。それでも外よりはマシで、老女はハンカチで汗を拭い、奥へ向かった。
「あ、クフシーンカさん、こんにちは」
「暑いのに、大丈夫ですか」
椅子の間を巡って作業を説明する女性たちが、クフシーンカに笑顔と心配を向ける。仕立屋の店長は、協力者に微笑を返して頷いた。
「こんにちは。私は大丈夫よ。みなさんも順調そうでよかったわ」
「えぇ、お陰さまで」
「みなさん、技術の習得に熱心ですから」
仕立屋の店長クフシーンカは六月初旬、弟の国会議員ラクエウスの支持者らと共に冬の大火で生命以外全てを失った人々の救済事業を起ち上げた。
あっと言う間に忙しい日々が過ぎ、七月も間もなく終わる。
この二カ月足らずで、富裕層が暮らす農村地帯と団地地区で死蔵品を集め、慈善バザーを行った。
収益は全て保存食と医薬品に換え、売残りと食品は、救済事業で雇用した生活困窮者への報酬や加工品の素材に充てる。
医薬品は、小中学校と教会に寄付し、病院へ行けない人々の小さな支えにした。
リストヴァー自治区東部の湖に面する一帯は、工場地帯だ。工場群の大きな道路を隔てた西には、労働者相手の商店街と病院があったが、二月の大火に呑まれ、全て失われた。
病院は団地地区にもあるが、バラックを焼け出された人々にはカネがない。東地区では、市販の風邪薬や解熱剤、湿布でさえ貴重品だった。
集めた死蔵品の内、文房具と絵本は小中学校に寄付した。
ボロ着はクフシーンカの店でボタンを回収し、空き教室を借りて、救済事業で雇用した人々の雑巾縫製作業に回す。
汚れや傷みはあってもまだ着られる服は、クフシーンカの店で直し、同じく、事業としてなるべく多くの人を洗濯に一時雇用した。
教会に場所を借り、並行して箒作りもする。
それらの単発事業で雇った人々には、食糧と衣類、彼らが作った掃除用具を報酬として支払った。
みんなが熱心に作った為、箒の素材が手に入り難くなり、今は雑巾よりマシだが着るには難がある服を解いて袋を作る事業と、以前作った掃除用具を用いた清掃事業に移った。
職にあぶれた人々は、作った物の一部を自分の物にでき、その後に続く事業で雇われる可能性があると知り、教会や仮設校舎の空き教室に足繁く通った。
……あの火事で生命以外の何もかもを失くしても、こうして前を向いて歩ける人は、きっと大丈夫よね。
クフシーンカは、教会から姿を消したウィオラを思い出し、老いに萎びた胸が痛んだ。
大火で身寄りを失くし、誰の子かわからない乳呑児を抱えた少女だ。
両親に客を取らされたから、独りになれて却ってホッとしたのではないか――彼女の事情を知る者は、密かに囁いた。
春の終わり頃に赤子が産まれ、たった一人の身内として残った。ウィオラは仮設住宅には入れたが、夜勤明けの隣人に赤ん坊がうるさいと怒鳴られ、日中は教会に身を寄せる。
「少ないけど、これ、とっときな」
「有難うございます。でも、私、何もお返しできなくて」
「いいってことよ。出世払いで」
同情した人々が、なけなしの食べ物を分け与えたが、乳の出が悪く、赤子は日に日に弱る。
ウィオラは箒作りに参加し、クフシーンカや、作り方を指導する新聞屋夫婦が見た限り、慣れない手仕事を覚えようと、一生懸命働いた。
作業の間、新聞屋の妻が他の乳呑児と一緒にウィオラの子の面倒を見る。粉ミルクは手に入らなかったので、ぬるま湯で薄めた麦粥などを匙で飲ませ、沐浴させ、寄付されたおしめを当てた。
「有難うございます。私、何もできなくて」
「いいのよ。初めての子なんだから。これから覚えて、できるようになればいいのよ」
「はい、頑張ります」
涙混じりの笑顔で答え、実際、ウィオラは精一杯した。まだ中学生の筈だが、貧しい人々の多い東地区では、この歳で定職のある男性に嫁がされることも珍しくない。
以前なら、貧しい娘が「仕事」で産んだ赤子は里子に出されたが、大火の後はどこも余裕がなく、そうした赤子たちの引き取り手は現れなかった。
材料が不足し、箒作りの作業がない日も、ウィオラは隣人に追い立てられ、礼拝堂の隅で顔色の悪い乳呑児をあやした。
団地地区から通う老いた尼僧が毎日、母子に飴玉をひとつずつ与える。ウィオラに限らず、飴玉目当てで教会に顔を出す親子は多い。飴玉をもらって感謝の祈りを捧げると、すぐに出てゆくが、ウィオラは隣人の出勤時間まで、礼拝堂の椅子で小さくなって過ごした。
ウィオラは、素材がある日は袋作りにも参加し、懸命に針仕事を覚えようと努力した。
仕立屋の店長クフシーンカは祭壇の脇に立ち、礼拝堂を見回す。今日も、針仕事に精を出す人々の中にウィオラの姿はなかった。
☆箒作り……「0294.弱者救済事業」参照
☆ウィオラ……「0294.弱者救済事業」参照




