0370.時代の空気が
湖の民の呪医セプテントリオーは、庭園を見詰めたまま言葉をこぼした。
「時代の空気……でしょうね」
「空気……」
ファーキルの嫌いな言葉が、呪医の口から出るとは思わなかった。
場の空気、教室の空気、世間の空気……時代の空気。
空気を読んで一人を蔑ろに扱っていじめ、それがどれだけ積み重なって止められない勢いを得れば、内戦にまで発展するのか。
四百年以上生きた湖の民が、歴史書を読み上げるような口調で言う。
「二百数十年前、キルクルス教と共に民主主義の思想と制度も伝来しました」
それは、ファーキルも学校で習った。この部分に関しては、アーテルの教科書も同じ認識な点に安堵する。
頷いてみせると、湖の民セプテントリオーは歴史の話を続けた。
「湖南地方と湖東地方も、時期はまちまちですが、半数程度が民主化しました。上手くいっている国もありますが、破綻して、未だに内戦が続く国もあります」
湖東地方には破綻国家が多く、ネモラリス共和国やラクリマリス王国との距離は近いが、政治的にはとても遠い。
ラキュス・ラクリマリス王国は民主化後、百年余りしか続かなかった。破綻後、国を三分割して何とか立て直しつつあるが、ファーキルには、当時の空気を読んで民主化したことこそが、失敗としか思えない。
湖の民の呪医は、ファーキルの考えを読んだように、やんわり否定した。
「民族自決の思想が台頭してから、急激に情勢が悪化したんですよ」
「民族自決?」
「自分たちの民族のことは、自分たちで決めて、他の介入を許さない。ひとつの民族にひとつの国家。独立思想です」
「えっ? そんなのって……」
「多民族国家のラキュス・ラクリマリス共和国でそんな主張が罷り通れば、こうなって当然です」
湖の民セプテントリオーは緑の瞳を翳らせ、陸の民の少年に静かな声で語る。
「元は、アルトン・ガザ大陸に多数あった植民地の独立運動を推進した思想なのです」
アルトン・ガザ大陸の植民地化については、ファーキルも歴史の授業で習った。
今から六百年程前、アルトン・ガザ大陸北部で、大型帆船の建造技術が確立し、長距離航海が可能になった。
それ以前は、アルトン・ガザ大陸中部に隆起するディアファナンテ高地が障壁となり、大陸南部との交流は二千年以上に亘って途絶した。
ディアファナンテ高地全土を領有するディアファナンテ王国は、三界の魔物の惨禍から逃れる為、土地を隆起させ、強力な結界で外界の全てを拒絶した。
大航海時代には、国家の存続さえ不明な暗黒の高地だった。
伝説に残る南の大陸を目指し、多くの野心家や資本家が船を出す。
アルトン・ガザ大陸北部は、三界の魔物との戦いで魔力が枯渇。半視力が多数派を占め、力ある民は稀有な存在だ。聖者キルクルス・ラクテウスの教えに従い、科学技術の発展に力を尽くす。
雑妖は多いが、魔物は少ない。行方不明者の何割かは魔物に捕食されたかも知れないが、この世の実体を持たない魔物は、半視力の人々には存在を知覚できない。視えないモノは、居ないものとして扱われ、人々の認識の外に置かれた。
魔物がこの世の生物を喰らって受肉した「魔獣」は、普通の武器でこの世の肉体を破壊すれば、無害化できる。魔獣を「特殊な能力を持った手強い猛獣」と認識する者も多かった。
ディアファナンテ高地周辺は不自然に大地が抉れ、三界の魔物との激戦の跡だと伝わる。海域には魔物と暗礁が多く、沿岸部を行くしかない小型船舶の往来を長らく拒んだ。
大型帆船は、霊視力を持つ者を見張りに雇い、「海魔の城」と呼ばれる難所を大きく迂回して、アルトン・ガザ大陸西部の鯨大洋と、東部の鵬大洋を南下した。
アルトン・ガザ大陸南部には、まだ魔力の残る土地が多い。北部とは比較にならない程、魔物や魔獣が多く棲息し、住民は、力ある民と力なき民が混在する。
魔法はかつての栄華を失い、術の多くが失伝した。科学は魔術で代替可能な分、発展が遅れた。
銃や大砲で武装した船団が、アルトン・ガザ大陸南部の国々を征服するのに大した時間は要さなかった。
北部から侵入した征服者たちは、魔物や魔獣に阻まれて国境線があやふやな土地を好き勝手に線引きして、領有宣言した。
そうして、アルトン・ガザ大陸南部に植民地化の波が押し寄せ、科学の先端技術とキルクルス教の信仰が急速に広まった。
元の王国は解体され、宗主国から派遣された監督官や経営者、宗主国にとって都合のいい「土地の有力者」たちによる合議制で、植民地の政策が決定された。
地元民にも関与させることで不満を逸らす試みは奏功し、地元民の中に支配者と被支配者の関係が新たに構築され、宗主国の支配が強化された。
これは後に民主主義へと変化するが、当時はまだ、隷属の軛でしかなかった。
三百年程前、植民地の有力者の一部が叛旗を翻し、武力で自治を勝ち取った。
だが、旧王家は絶えて久しく、王政復古できない。町や村単位で代表者を立て、人々の意見を取りまとめて国政に届ける……今の選挙に近い仕組みが作られた。
アルトン・ガザ大陸北部の宗主国は、支配が弱まった植民地の「損失」を補うべく、西の鯨大洋、東の鵬大洋を越え、チヌカルクル・ノチウ大陸に手を伸ばした。
海の魔物や魔獣に阻まれ、比較的近いチヌカルクル・ノチウ大陸西南部に達するまで、数十年を要した。
力ある民の【跳躍】で、アルトン・ガザ大陸の新しい宗教「キルクルス教」と高度な科学文明の情報は、瞬く間に広まった。警戒すべきものとして伝えられたが、力なき民には信仰が根付いた。
二百年数十年前、アルトン・ガザ大陸北部に端を発し、世界の大半を巻き込む大戦が勃発した。
この時代には、多くの国が立憲君主制を採ったが、王家の弱体化や断絶の結果、民主化が進んだ。戦乱に乗じて革命を起こし、専制君主を打倒して共和制に移行した国もある。
民主主義思想の波は大戦後、戦乱に巻き込まれずに済んだチヌカルクル・ノチウ大陸西部にも及んだ。ラキュス湖地方のラキュス・ラクリマリス王国も、その流れを受け、無血で共和制に移行した。
百年程前には、民主化した北部の宗主国と支配に苦しむ植民地との間で、アルトン・ガザ南北大戦が起きた。この時、アルトン・ガザ大陸南部の人々を鼓舞したのが、「民族自決」の思想だ。
「……歴史の教科書に載ってたの、思い出しました」
陸の民のファーキルが言うと、緑髪のセプテントリオーは視線で促した。
「植民地の人たちが、民族自決のスローガンを掲げて戦って、その考えに共感したこの辺の人たちも加勢して、独立を勝ち取ったって」
「戦う相手が宗主国……地域社会にとって共通の敵だった間は、それでよかったのですが、独立後、今度はどの民族が国を支配するかで、新たな紛争が起こりました」
「植民地時代の国境が、元の国境と全然違ってたからですね?」
「そうです。植民地化以前を知る長命人種を中心に、各民族が領土紛争を始め、未だに続く地域もあります。資源の獲得や、その戦いで流れた血の分、憎悪が憎悪を呼び、収拾がつかなくなっているのです」
二百年前の世界大戦の反省から、国際連合が発足した。
だが、旧宗主国の流れを汲む科学文明の大国が常任理事国であることに反発し、国連に未加盟の国も多い。
国連主導の仲裁で和平が成立した地域は、ほんの僅かだ。
そもそも、各民族が樹立した暫定政府が乱立して国家の体を成さず、国連に代表を送れない。それら無政府状態の地域は、二、三の大勢力が停戦合意しても、別の複数の勢力がそれに乗じ、却って戦闘を泥沼化させた。
……あれっ? アルトン・ガザ大陸の歴史は、ホントのコト書いてたんだ?
アーテルの教科書に記された歴史と、長命人種で四百歳以上のセプテントリオーが記憶する「当時の国際情勢」は、ほぼ一致するらしい。
呪医セプテントリオーが、苦しげに当時の記憶を語る。
「植民地へ加勢に行った義勇兵は、宗主国から独立を勝ち取った直後に帰国し、民族自決の思想をこの地にもたらしました」
奴隷の軛を断ち切った喜びと昂揚は、ひとつの陶酔となって人々の間に広まった。
無血で共和制に移行したラキュス・ラクリマリスの民は、時代の空気に中てられてしまったのかも知れない。
ラキュス湖南地方最大にして最古の国家は、三界の魔物の惨禍でも解体しなかったが、百年足らずで分裂した。
☆ラキュス・ラクリマリス王国も、その流れを受け、無血で共和制に移行……「0059.仕立屋の店長」参照




