0359.歴史の教科書
オリョールが袖で涙を拭い、一息に言う。
「でも、アーテルの技術じゃ作れないみたいで、他所から古いのを買うしかないみたいなんです。もうそんなカネないだろうから、残りを一気に叩きたいんです」
「それで……私にどうせよと?」
「一応、怪我した時用にみんなを連れてきましたけど、多分、誰も帰らないと思います。作戦から三日経っても音沙汰なかったら、ここを引き払って下さい」
ふと思い出した顔で、早口に付け足す。
「あの人たち、シルヴァさんさえ構わなければ、居ても大丈夫だと思います。今まで有難うございました」
オリョールが立ち上がって姿勢を正し、呪医セプテントリオーに頭を下げた。呪医も立ち、ローテーブル越しにオリョールの腕を掴む。
「そんな一方的な宣言は、相談とは言えません。考え直して下さい」
陸の民の若者は、涙に濡れた目に湖の民の険しい表情を映し、弱々しい笑みを浮かべた。
「本当は、呪医にもっと酷いコト……お願いするつもりでした」
「何を……」
「聞いてどうするんです?」
「相談したいと言いながら、黙って……何もかも、一人で実行する気ですか?」
オリョールは答えない。呪医の手を振り払うこともなく、詰問する湖の民を無言で見詰める。呪医は、若い陸の民の眼から考えを読み取ろうとした。
……恐らく、これが最後だ。なんとかして思い留まらせなければ。
オリョールの腕を掴む手に力が籠もる。若者の視線が動いた。書斎の扉を見て、口を開く。
「負傷して、ここに戻ったのが、ジャーニトル以外だったら……呪医にトドメを刺してもらおうと思ってました」
「何だってッ?」
「ジャーニトルは最近、こう言うの虚しいって言ってるんです。でも、他のみんなは……特に、シルヴァさんが連れてきた人たちは、元々一人で復讐してた人たちなんで……何て言うか」
オリョールの手が、呪医セプテントリオーの手に触れる。
そっと添えられた手は、あたたかかった。
「ただの復讐じゃなくって、アーテルの力なき民をいたぶって……殺すのが、楽しみ……みたいなとこがあって」
震える手が、呪医の手首を握る。
呪医セプテントリオーは、ローテーブルを回り込み、若者の隣に立った。怯える若者の肩にそっと手を触れる。
「強盗とか、殺人とか……アーテルの報道じゃ逃げた囚人の仕業ってコトになってるけど、何割かは自分たちだって……どんなに酷い殺し方したか、笑いながら自慢しあってて」
「そんな者たちが、今、ここに?」
「はい。それで……あの……作戦中に死んでもらおうと……生き残ってネモラリスに戻ったら、きっとロクなコトにならないから、それで、呪医に」
呪医セプテントリオーは半世紀の内乱中、イヤと言う程目にした光景を思い出した。それまで、魔物や魔獣から人間を守る為に使われた力が、人間に向けられる。
圧倒的な力の差。
力ある民があらゆる魔術で、力なき民が科学の武器で、互いを屠る。弱い者は為す術もなく、強い者に蹂躙される。
一度に大量虐殺することもあれば、じわじわと苦痛を長引かせ、絶望の底でもがく様を見物することさえあった。
毒ガス兵器が神殿に使用され、セプテントリオーが駆け付けた時には、残留毒素で撤退を余儀なくされた。生存者の捜索すらできず、湖の女神パニセア・ユニ・フローラの神殿が墓場と化したのだ。
「歴史の教科書、あんまり詳しいコト、載ってませんでしたよ」
表情を失った呪医に、陸の民の若者が静かな声で語る。
「ラキュス・ラクリマリス王国は、湖の民のラキュス・ネーニア家と陸の民のラクリマリス家の共同統治で、ラキュス湖が今の大きさになってからずっと続いてたとか」
陸の民の若者は、宙を見詰めて記憶を手繰り寄せ、子供時代に習い覚えたことを諳んじる。
「絶対王政だけど、他所と違って専制君主じゃなかったとか、神話の時代からのコトをさらっと流して……それが、見開き二ページにまとめられてて、後は民主化後の百年と、半世紀の内乱のコトが半々」
警備員オリョールは、学校で教わった歴史の概略を語る。
長命人種の呪医セプテントリオーが、自身の経験との違いを見出せない程、簡潔なまとめだ。
「最近の……ネモラリス共和国時代は、『現代社会』って別の教科書、丸ごと一冊分でした」
「そうですか……有難うございます。それでは、王国時代の暮らしは」
「全然、想像もつきません」
「そう……でしょうね」
呪医は、若者の腕を掴んだ手をゆるめた。
「湖の女神の祭司と、陸の民の王の許、人々は信仰や人種、魔力の有無に関わらず、ラキュス・ラクリマリス王国の民として、平和に暮らしていました」
「昔はよかったって言うの、お年寄りの悪いクセですよ」
オリョールが苦笑した。セプテントリオーは僅かに口角を上げ、昔を語る。
「そうかもしれません。ですが、新しいことが必ずしも、良いとは限りません。この地にキルクルス教が伝わったのは、ほんの二百数十年前です。同時に、民主主義の概念も伝わりました」
「それが、諸悪の根源だって言いたいんですか?」
「いいえ。一概にそうとは断じられません。世界を見渡せば、それで上手く行っている国はたくさんあります」
誰もが常識として知ることだ。
陸の民の若者は、湖の民の呪医の言葉に頷いた。
「ただ、このラキュス地方には、馴染まない教えと制度だと思うのですよ」
陸の民の魔法戦士が、小声で湖の民の呪医の言葉を繰り返し、反芻する。
呪医セプテントリオーは、ローテーブルに広げた資料に視線を向けた。
昨年、アーテル領内で発生した魔物や魔獣による被害と駆除状況の統計と、最近発生した被害を報じた記事だ。
オリョールが呪医の視線を辿り、何とも言えない表情を浮かべた。
「そのふたつが移入されて以来、湖東地方では紛争が絶えず、湖南地方も、この通りです。古代の……三界の魔物との戦いで、魔力がほぼ枯渇した土地には、キルクルス教が定着しましたが、現状はこうです」
被害を伝える記事には、家庭でできる魔物対策の一覧表が添付されるが、いずれも、ほんの気持ち程度の効果しかない。
アーテルでは、誰かが食われて魔物が受肉し、実体を備えた魔獣となるまで、駆除できない。実体を持たない魔物では、科学の武器の攻撃が効かないのだ。
「対して、封印の地ムルティフローラを中心とする湖北地方は、ほぼ鎖国状態ですが、専制君主の許、安定しています」
湖北七王国は、三界の魔物との戦いで弱体化したプラティフィラ帝国の流れを汲む。三界の魔物に対抗する為、各王家は血縁で結ばれ、強固な同盟関係を築いた。他国の侵略などから二千年以上に亘り、ムルティフローラ王国を守り通したのだ。
いずれも魔法文明国で、人口に占める長命人種の割合が比較的高いらしく、国王の在位期間は長い。帝国直系のプラティフィラ王国は、ラキュス・ラクリマリス王国より長く存続したと言える。
「元に戻した方がいいって言うんですか? 何千年も上手く行ってたから?」
「完全に元通りと言うワケには行かないでしょうね」
「ジャーニトルに言っときます」
復讐に身を捧げる青年は、呪医の手をとり、そっと握った。
☆アーテルの報道じゃ逃げた囚人の仕業……「0265.伝えない政策」参照
☆半世紀の内乱中、イヤと言う程見てきた光景……「059.仕立屋の店長」参照
☆このラキュス地方には、馴染まない教えと制度だと思うのですよ……「348.詩の募集開始」「357.警備員の説得」参照
☆湖東地方では紛争が絶えず……「0249.動かない国連」「0291.歌を広める者」参照




