3439.地域間の格差
魔法薬学会の職員が座学の講義室から退室した。
トラーフニク教授が、改めて研修生を見回して言う。
「まず、諸君の技術がどの程度のものか、聞き取りを行ってから講義の内容を決めます。座ったままで結構ですので、左端からどうぞ」
教授が湖南語で言って掌で最前列の席を示し、黒髪の女性通訳士も同じ動作をして共通語訳した。
茶髪の中年男性が座ったまま背筋を伸ばして答える。
「あ、あのっ、先日……レーグルス王子殿下からお叱りを受けました」
「殿下のお叱りは、何に対してですか?」
初老のトラーフニク教授がやさしい声で聞く。
「自分は【操水】で純水を作るのが下手で、不純物が残ってしまい、全く話にならないと大変お怒りで、他の素材を触らせていただけませんでした」
茶髪の研修生は肩を落とした。
薬師アウェッラーナは呆れたが、表情を動かさないように努力する。
トラーフニク教授は、変わらないやさしい声音で聞いた。
「あなたは薬師のようですが、母国の業務で、純水を作る作業をなさらないのですか? 普段からしていれば、自然と上達する筈ですが」
「業務の効率化の為、純水は専門の業者から購入した物を使っています」
アウェッラーナは思わず口を挟んだ。
「えぇ……? 基本操作ですよ? 不純物が混じると品質が落ちますし、魔法薬に雑菌が混入すれば感染の原因になりますし、植物や魔獣由来の素材から成分を単離する操作なら、混入物によっては霊的な性質が想定外に変化して未知の副作用が出たり、毒薬になる可能性もあるんでけど? 今まで医療事故とかなかったんですか?」
共通語訳を聞いた研修生は、叱られた子犬のように身を縮めるだけで答えない。講義室に囁きが広がる。
薬師アウェッラーナは努めてやさしい声音で聞いた。
「みなさんはどうですか? 指導の参考にしますので、純水を業者から仕入れている方は正直に手を上げて下さい」
「いかがですか? 病院の方針などもありますので、我々はみなさんを咎めたりはしません。飽くまでも、指導の参考です」
トラーフニク教授も小さく手を挙げて講義室を見回す。
あちこちからパラパラ手が挙がり、最終的に手を挙げなかった者をみつけるのが難しくなった。
アウェッラーナはげんなりしたが、患者を安心させる時の笑顔を繕って聞く。
「えー……はい。わかりました。では、逆に普段から自分で純水を作っている方は手を挙げて下さい」
「水から不純物を排出する基本的な操作を自力でできなければ、成分の単離作業も難しくなってきますので、正直に答えて下さい」
トラーフニク教授が言い添え、通訳が二人の湖南語を共通語訳する。
七十人余りの研修生は互いに顔を見合わせ、講師二人の顔色を窺う。
ややあって、三人だけが手を挙げた。男性一人と女性二人だが、三人とも自信なさそうな顔だ。
教壇から最も近い席で、年配の男性が手を挙げた。
「発言、よろしいでしょうか?」
「どうぞどうぞ。歓迎しますよ」
トラーフニク教授がホッとした笑顔を向ける。
年配の男性が流暢な共通語で答え、黒髪の通訳が湖南語訳する。
「アルトン・ガザ大陸南部全体の傾向として、水事情がよくないと言うのがあります」
「どう言うコトですか?」
トラーフニク教授が、湖南語訳を聞いて質問する。
アウェッラーナも話が見えず、首を傾げて彼を注視した。
「土に棲息する魔獣のせいで水道管の敷設工事ができなくて、水源から遠い地域では、主に雨水や井戸水などを利用しています。私の職場では去年、循環浄化型簡易水道を導入して少しマシになりましたが、国全体としては、なかなかそうもゆかないのが現状です」
「それは大変ですね。飲料水の確保や日常の家事などでも、いちいち【操水】で運ぶのですね?」
トラーフニク教授が彼らの苦労に理解を示す。
年配の男性は微妙な顔で講師の二人の顔色を窺いながら続けた。
「えぇ……まぁ……運ぶと言っても、【無尽の瓶】に詰めるところまでなんですが、我々の魔力では、水汲みだけで疲れ切ってしまうんです」
教卓の傍らに控えた通訳が淡々と共通語を湖南語に訳す。
薬師アウェッラーナは驚いて研修生を見回した。半数程が唇を引き結んで首を縦に振る。
戦時中、共同生活を送った工員のクルィーロは、力ある民の中でもかなり魔力の弱い部類だったが、それでも、水汲みだけで疲弊することなどなかった。
アウェッラーナは、少し考えて年配の男性研修生に聞いた。
「あなたが一度に動かせる水の量はどのくらいですか?」
「かなり頑張れば、一リットルくらいは何とかなります」
外見通りの年齢の常命人種か、数百年生きた長命人種か不明だが、祖父と孫程も年齢差のある外見の男性に怯えた目を向けられ、アウェッラーナは困惑した。
……あれっ? 私、そんな怖いかな?
薬師アウェッラーナは中高生並の若い顔に微笑を浮かべて頷いてみせた。
「一リットルも動かせれば色々なことができますから、心配ありませんよ。魔力は【水晶】などで補えばいいんですから」
「そのー……【魔力の水晶】なんですが、予算の都合でなかなか気軽には使えなくてですね」
年配の男性研修生の隣で、中年の男性研修生が身を縮めて発言した。
アウェッラーナは驚いた。通訳が驚きを再現して湖南語を共通語訳する。
「えっ? でも、【水晶】は再充填して何回でも繰返し使えますよね?」
「はい……理論上はそうですが、なんせ、品質がアレですので、数回使うと割れてしまってですね」
「安い製品は、ほぼ使い捨て……なんです……けど……?」
彼の隣の研修生が、年配の研修生に同意して講師の顔色を窺う。
講師二人は、湖南語訳を聞いて顔を見合わせた。
小声で相談する。
「教授……どうしましょう?」
「研修を効率よく進めるには、こちらで実技用に【魔力の水晶】を用意して、可能ならそれを販売して母国でも使えるようにした方がいいでしょうね」
アウェッラーナはポケットに入れっぱなしの【水晶】を出して聞いた。
「そうなりますね。ここはひとまず、私物を提供しますか?」
「よろしいのですか?」
「最近はあんまり使わないので」
「買取れるだけの手持ちがあるか、聞いてみましょう」
トラーフニク教授が研修生に向き直って質問する。
「我が国では、落とすなどして破損しない限り、数千……数万回は問題なく使える【水晶】が標準なのですが、購入は可能でしょうか?」
「でも、お値段、高いんですよね?」
中段から若い女性薬師が諦めた顔で聞いた。
トラーフニク教授が顔の前でひらひら手を振り、苦笑交じりに答える。
「いえいえ。大豆くらいの大きさで作用力を補う効果のないものでしたら、庶民的なお店でお昼ごはん一回食分程度ですよ」
「えッ? そんなに安いんですか?」
質問した若い薬師が驚き、他の研修生たちも驚きと安堵の混じった目で講師を見詰める。
教授が納得した顔になる。
「あぁ……物価がかなり違うんですね」
「あなたの国では、同じ大きさと仕様の【水晶】って大体お幾らですか?」
アウェッラーナが聞くと、先程の若い女性薬師が答えた。
「私はルニフェラ共和国から来ましたが、そのくらいのお品ですと、大体、初任給の三分の一くらいになります」
「えぇッ? そんなに高いんですか?」
湖南語訳を聞いて、アウェッラーナは信じられない思いで声を上げた。
……誤訳……じゃないわよね?
「加工できる職人が少ないので、稀少価値って言うか、人件費が凄く高くつくんです」
「ウチの地元でもそうです」
「はい。こちらもでもそのくらいの値段になります」
「アルトン・ガザ大陸南部ではどこもそのくらいが相場ですね」
あちこちから声が上がり、通訳の係が湖南語訳する。
アウェッラーナは、誤訳ではないとわかって愕然とした。
「そんなところにも差があるんですね」
「こちらでは大衆食堂の魚定食一人前くらいのお値段ですが、購入できる手持ちのある方は手を挙げて下さい」
「おカネですか? モノですか?」
トラーフニク教授が挙手を求めると、研修生から質問が飛んだ。
「おカネは両替の手数料が掛かりますので、モノでお願いします」
「えっと、自腹で買うんですか?」
「上司と相談させてもらえませんか?」
「手持ちがあるのでしたら、個人的にでも構いませんし、病院の予算で賄う場合は業者さんと相談して契約書を作成します」
薬師アウェッラーナが口を挟む間もなく、トラーフニク教授と研修生の間で話が進む。
研修以前にこんなことで時間を取られるとは思わず、薬師アウェッラーナは先が思いやられた。
☆循環浄化型水道……「3165.人助けの商品」参照
☆最近はあんまり使わない……「2514.彼我の隔たり」「2515.旧王族と司祭」「2926.新年の調剤室」「3176.コツを伝える」参照




