3438.研修生と対面
軍医レーグルスが、ケロリと明るい顔になる。
「引き受けてくれて有難う。東市民病院には薬師の資格を持つ衛生兵を二人派遣するし、薬科大にもベテランの衛生兵を講師として派遣するから、君たちの抜けた穴は心配しなくていいよ」
「衛生兵の方々を基礎訓練の講師として派遣することは可能ですか?」
薬師アウェッラーナは承諾したものの、どうにか回避できないか粘った。
「衛生兵は現場での救命活動には強いんだけど、練度不足で誰も脳解毒薬を作れなかったから、“脳解毒薬の講師”として派遣できないんだ」
レーグルス王子は、少しだけ申し訳なさそうな表情に戻った。
モースト薬科大学のトラーフニク教授が確認する。
「魔法薬学会との契約がそうなっているのですね?」
「うん。ラキュス・ラクリマリス王国籍で脳解毒薬を自力で調合できた人でなければ、研修所の扉が開かないんだ」
魔法薬学会の建物は、ルブラ王国領ミクランテラ島にある魔道士の国際組織「霊性の翼団」本部に附属する。
建物内の扉にはすべて【認証】が掛かっており、条件を満たす者でなければ、物体の鍵が掛かっていなくても開けない。
脳解毒薬の研修で使用する部屋は、条件を「ラキュス・ラクリマリス王国籍で脳解毒薬を自力で調合できた人物」に設定されたのだ。
……学会の人、レーグルス殿下限定にしてくれればよかったのに。
薬師アウェッラーナは、何故そんな中途半端な条件にしたのかと魔法薬学会の施設管理者に仄暗い気持ちを抱いた。
「市民病院と大学への連絡は私がするから、君たちは今から魔法薬学会の本部に顔を出してくれる?」
「えッ? 事前の準備も何もなしにですか?」
トラーフニク教授が面食らう。アウェッラーナも同感だ。
レーグルス王子はにっこり笑って応じた。
「研修の準備はルブラ王国の人がしてくれてるから、身ひとつで大丈夫だよ」
「えーっと、私たちはミクランテラ島に宿泊、それとも、通勤でしょうか?」
薬師アウェッラーナは、兄アビエースの血圧の薬が残り何日分か、今すぐ確認したくなった。通勤ならまだしも、一週間も宿泊するなら足りなくなる。
レーグルス王子は、何か問題があるのかと問いたげな顔で言った。
「宿泊した方が効率いいよ」
「兄の高血圧の薬を作ってから行きたいのですが」
「君の部下に頼むんじゃダメ?」
「それでも、引継ぎなどを致したく存じます」
薬師アウェッラーナが恭しく頭を垂れると、トラーフニク教授も頭を下げた。
「じゃあ、行くのは明日からでいいや。今から引継ぎして、明日の朝イチにこの基地の正門前に集合」
「は、はい……!」
時間がないことに変わりはないが、何もないよりはマシだ。
薬師アウェッラーナはトポリ市立東市民病院、トラーフニク教授はモースト薬科大学に急いで戻った。慌ただしく引継ぎを済ませ、定時で自宅に帰る。
兄アビエースは、台所に立って夕飯の支度をするところだ。
アウェッラーナは【操水】で手を洗って、兄に声を掛けた。
「出張に行くことになって、明日から一週間くらい留守にするから」
「えっ? 出張? 随分と急だな? どこへ行くんだ?」
庖丁が止まり、漁で日焼けした顔がアウェッラーナに向く。
「ミクランテラ島。研修のお手伝いに呼ばれたの」
「研修って……王子様に?」
「そう」
「それじゃ断れないな」
兄が何もかもわかった顔で苦笑する。
「それで、いつものお薬、明後日はソーフカさんに頼んどいたから」
「わかった。ラーナも気を付けてな」
兄に気遣われ、アウェッラーナは泣きたいような気持ちになった。
翌朝、軍医レーグルスと近衛兵の【跳躍】で、ネモラリス島の遙か北に浮かぶルブラ王国領の島へ移動した。
薬師アウェッラーナがミクランテラ島の土を踏むのは徽章の授与式以来だ。
当時在籍したゼルノー市立薬科大学は、魔哮砲戦争の空襲で焼失した。まだ再建途中で、講義の再開がいつになるか見通せない。
アウェッラーナは、教授や同級生たちが何人生き残れたかすら知らないことに気付いた。
魔法薬学会の男性職員が先導し、軍医レーグルスと近衛兵、トラーフニク教授が続く。
薬師アウェッラーナは感傷を振り払い、数十年振りに訪れた魔法薬学会の建物に足を踏み入れた。
この建物は、あの頃と何も変わらない。
重厚な石材に各種防護の呪文と呪印が刻まれ、並の魔獣では歯が立たない。暑くもなく寒くもなく、通年快適な室温が保たれる。地震や火災にも強く、火を扱う作業をする部屋は更に強力な【耐火】で守られる。
これらの術を起動するのは、職員と講師、研修生の魔力だ。
ルブラ王国人の職員が、やや湖北語訛のある湖南語で案内する。
「座学は一〇二号室、中間素材を作る実技は二〇五号室、減圧室をご使用の際には、その都度お申し出下さい」
「今回は基本的な精密操作の訓練だから、減圧室は使わないよ」
「左様でございますか」
軍医レーグルスが言うと、ルブラ王国人の職員は恭しく応じた。
「引継ぎ終わり! 私はヴェスペルゴ王女の臨床研修に行くから、二人ともよろしくね」
レーグルス王子は一方的に言って、廊下を早歩きで去った。
魔法薬学会の職員が苦笑する。
「お二人は講師用の宿舎にご逗留いただきます」
「そうですか」
「インターネットは共同の食堂でのみお使いいただけます」
「あぁ、そう言えば、導入したのでしたね」
トラーフニク教授は顔を綻ばせたが、薬師アウェッラーナには関係ない話だ。
「研修生のみなさんは、一〇二号室にお集まりいただいております」
アウェッラーナは、座学の講義室前で足を止めた。
「あッ……! あのっ、言葉! 湖南語で通じるんですか?」
「殿下から、今回の研修生はアルトン・ガザ大陸南部の様々な国から派遣されたとお伺いしたのですが」
トラーフニク教授も不安な顔で職員に聞く。
「湖南語話者の共通語通訳をおつけしておりますので、ご安心下さい」
「えッ? 共通語?」
アウェッラーナは驚いて湖北語話者の職員を見た。
魔法薬学会の職員は落ち着いた声で応じる。
「彼らの母国語は様々ですが、キルクルス教国との繋がりが深い為、みなさん、共通語が堪能なのだそうです」
「あぁ……植民地だったから」
薬師アウェッラーナは何とも言えない気持ちで頷いた。
アルトン・ガザ大陸南部では、多くの国が共通語を第二言語に定める。
座学の講義室は、大学の講義室に似た造りだ。
大きなスライド式黒板の前に木製の教卓を置いた教壇、机が階段状に並んで教壇を見下ろす。
白髪交じりの茶髪のトラーフニク教授より、緑髪の薬師アウェッラーナに多くの視線が集まった。アルトン・ガザ大陸南部出身の研修生は、祖国で湖の民を見る機会がないからだろう。
教卓の傍らで、黒髪の女性が講師の二人にお辞儀した。
トラーフニク教授に手招きされ、アウェッラーナも教卓の前に並んで立つ。
ざっと見渡したところ、座席は百席丁度だ。七割近くが埋まり、一応、全員の胸元に【飛翔する梟】学派か【思考する梟】学派の徽章が見えた。
様々な髪色の研修生が講師を見下ろすが、緑髪だけは居ない。
この場で湖の民はアウェッラーナだけだ。
魔法薬学会の職員が湖南語で告げ、黒髪の女性が共通語訳する。
「このお二方は、レーグルス王子殿下に代わってみなさんに精密操作の基礎訓練をして下さいます。トラーフニク教授とアウェッラーナ薬師も、脳解毒薬の調合と投薬が可能な高位の術者です。わからないことがあれば、この機会に必ず質問し、わからないままで帰国しないようにお願いします」
……最悪、脳解毒薬を作れなくても、この研修で精密操作の腕が上がれば、救命率だけでも上げられるわよね?
薬師アウェッラーナは重圧に潰されそうになったが、平静を装って研修生たちを見詰め返した。
教授が一歩前に出て自己紹介する。
「ラキュス・ラクリマリス王国立モースト薬科大学薬学部、臨床学科の教授、トラーフニクです。この度はレーグルス王子殿下より講師の任を仰せつかり、魔法薬学会で教鞭を執る運びになりました。まずは、異物を混入させることなく、第一の中間素材を完成させることを目標に励みましょう」
「ラキュス・ラクリマリス王国、トポリ市立東市民病院の薬師アウェッラーナです。長命人種で、五十年近い臨床経験があります。もし、みなさんが、研修期間満了までに脳解毒薬を調合できるようにならなかったとしても、ここで学んだ精密操作は、臨床の現場で必ず救命率を向上させる役に立ちますので、しっかり技術を身につけて帰って下さい」
二人の自己紹介が共通語訳されると、研修生たちは表情を引締めた。




