0035.隠れ一神教徒
ロークは、幼い頃からずっと、自治区民の苦しい生活を聞かされて育った。
祖父と両親は、地区の信者団体の役員だ。その関係で、ディアファネス家は人の出入りが多い。
ロークは毎週、休日の礼拝に参加させられ、その後の報告会で、自治区で暮らすキルクルス教徒の様子も聞かされた。
大いなるラキュスは塩湖だ。
そのままでは湖水を利用できない。
沿岸部の井戸は塩分を含む。
淡水化施設は一カ所しかなく、リストヴァー自治区では、真水が貴重品だ。
水の購入で家計が圧迫され、貧しい家が多い。
真水を買うことすらできない家は、塩気混じりの井戸水をそのまま飲むしかない。腎臓や循環器系をやられるが、医療費を捻出できず、短い生涯を終える。
どうせ短い人生なら、と刹那的な生き方を選ぶ者が多く、治安もよくない。
南の国境、クブルム山脈を越え、ラクリマリス王国を目指す者たちもいる。
ネーニア島の南西部は、北ヴィエートフィ大橋でランテルナ島と繋がる。
越境者の最終目的は、ラクリマリス王国ではなく、キルクルス教国のアーテル共和国領ランテルナ島だ。
その殆どが、ラクリマリス王国を通過するどころか、山越えの途中で魔物や魔獣に襲われるのか、消息を断つ。
ラキュス湖上も魔物だらけ。
女神の加護を得られる湖の民などの魔法使いでなければ、対抗できない。
ネモラリス共和国全体で見れば、漁業と水運が主要産業だが、リストヴァー自治区のキルクルス教徒は、そのどちらも不可能だ。
湖に近い土地は塩分を含み、農業に適さない。
魔法使いならば、土地の塩抜きをして農地を広げられる。
自治区民には不可能だ。
自治区の南側に広がる山での林業と、裾野の僅かな農地での農業、機械部品製造などで生計を立てる。
林業も、魔物が麓に降りてこないようにする為の伐採が目的で、植林はしない。日中に裾野近くで伐るだけで、山奥へは行けない。
親戚や友人知人がリストヴァー自治区に居る信者たちは、涙を流しながら、彼らの窮状を語る。
毎週毎週、飽きもせず。
セリェブロー区で暮らす信者は、密かに食糧などを援助していると言うが、ロークには信じ難かった。
涙ながらに語られる話は、どれも大袈裟で、却って空々しく聞こえた。
どこまでが本当で、どれだけ話を盛っているのか。
自治区の様子を実際に見たことのないロークには、彼らの「可哀想アピール」をどこまで信じていいかわからなかった。
……大体、貧乏がイヤなら、キルクルス教なんて止めて、こっちに引越してくればいいのに。何でこっちに火ぃ付けてんだよ。
魔力の有無は遺伝的なものだ。
陸の民と湖の民の間に子供は生まれないが、陸の民なら、力なき民と力ある民の間にも、子孫を残せる。
ラキュス湖南地方では混血が進み、家族や親戚の中に、力ある民と力なき民が混在する家も多い。
キルクルス教の教えは、魔術を全面的に否定する。
信仰の違いでバラバラになった家族もあった。
ロークのディアファネス家は、バラバラにはならなかった。
知っている範囲の身内には、力ある民が一人も居ないからだろう。
キルクルス教徒だが、三十年前の強制移住を前にして、フラクシヌス教に改宗した。それは表向きの話で、実際には密かに信仰を守っている。
同様の家はたくさんあった。
湖には魔物が多い。
湖よりは少ないが、人が住む陸地の平野部にも魔物は居る。島の内陸部の湿地や山林は、強い魔物や魔獣が多くて人が住めない。
魔物から身を守るには、どうしても魔法の力を借りなければならない。
この地方で生き延びるには、魔術を完全に捨て去ることなど不可能なのだ。
魔術を完全に排除する自治区の未来がどうなるか。
予測できた者たちは、表向き、聖者キルクルスの教えを捨てた。
両親は、そんな隠れキルクルス教徒の信者団体役員で、祖父は相談役を務め、司祭のように敬われる。
セリェブロー地区には、船会社や商社などに勤務する者が多い。大人たちは仕事で自治区へ赴いた際、個人的な援助や情報収集も行っていた。




