3420.安全を論じる
アーテル共和国の首都ルフスは、終戦直後と比べれば、魔獣が減って安全になった。それでも依然として、土が剥き出しの場所では土魚に襲われる危険性が高い。
ラキュス・ラクリマリス王国からフラクシヌス教団とボランティアが訪れ、キルクルス教の教会や学校、病院、公共施設などの周囲に結界を巡らせて、力なき民が大部分を占めるアーテル人の安全を確保する。
ルフス神学校での呪歌【道守り】による結界の構築が完了した。
「お疲れ様でした」
「有難うございました」
「では、また来週」
キルクルス教の聖職者と教職員が、【跳躍】を唱えて姿を消す魔法使いたちに何度も礼を言う。
非常勤講師のアミエーラは、ラキュス・ラクリマリス王国の王都第二神殿から派遣されたフラクシヌス教の神官と歌唱ボランティアたちを見送った。
最後の一人が魔法で帰国するのを見届け、アミエーラもアーテル人の教職員たちと共に大会議室へ移動する。
印暦二二〇一年五月半ばの日曜。
神学科の礼拝以外の授業は休みだが、非常勤講師のアミエーラも含めて全職員が招集された。
ルフス神学校の理事長が、百人近い職員を見回して言う。
「何事もなければ、八月に大統領選挙が実施される予定です」
「その前、七月には国家再統合に関する国民投票もあります」
学長が付け加え、職員たちが首を縦に振った。様々な髪色だが、湖の民の緑髪だけは居ない。
「先週の予備選と同じで、我が校も投票所として講堂を解放するのですよね?」
体育教諭が小さく挙手して確認する。
理事長が短く肯定し、苦い顔をした。
五月初旬に実施された予備選では、現職のミェーフ大統領が対立候補たちの何倍も支持を集め、圧倒的に優勢だった。
何度も暗殺未遂があり、再選できたとしても、いつ、平和を掲げて当選したヒュムヌス大統領の二の舞にならないとも限らない。
暗殺を悉く未遂で終わらせたのは、ランテルナ島で護衛として雇った魔獣駆除業者の二人だ。
ルフス神学校の校門前でも昨夏……印暦二二〇〇年七月、【道守り】の視察に訪れたミェーフ大統領が襲われ、アミエーラはその現場に居合わせた。
護衛の一人はアミエーラの顔見知りで、武力に依らず平和を取り戻す活動に参加したクラウストラだ。相棒の男性は初対面だが、かなり腕の立つ魔法戦士らしい。
あの時、テロリストに捨て駒として使われた神学生クアエスツスは、現在も警察病院に入院中だ。薬物依存症は減薬を経て寛解したが、脳腫瘍がみつかり、公判に耐えられる体調ではないと言う。
クアエスツスに違法薬物を渡すと約束して手榴弾を渡したテロリストの女は、未だに身許不明で逮捕されない。
……国が再統合したら、薬の空シートとかを【鵠しき燭台】に掛けてすぐ捕まえられるのに。
アミエーラはアーテル共和国の司法制度がもどかしかった。
魔法使いの自治区ランテルナ島には、【明かし水鏡】や【鵠しき燭台】などの魔道具があり、捜査や裁判に使用される。
【明かし水鏡】があれば、真偽不明のことも、水の反応で明らかにできる。
【鵠しき燭台】で証拠品を調べれば、その物の持つ記憶を鏡に映し出し、クアエスツスに違法薬物を渡した人物の顔などがわかる。
魔法文明圏や一部の科学文明国では、冤罪防止や魔道犯罪の捜査でこれらの魔道具を積極的に活用する。
世界を見渡せば、このふたつを使用しない国の方が少ないのだ。
アーテル共和国では半世紀の内乱を経た分離独立後から、キルクルス教の教義を歪めて解釈した星の標が政権深くに食い込んで、制度設計にも関与した。
その結果、アーテル本土では一切の魔道具の使用が禁止され、それらを捜査に用いれば、刑事事件訴訟法に抵触する。
真犯人であっても、「違法な捜査による逮捕・起訴」を理由に無罪になるのだ。
ルフス神学校の理事長が、教職員と聖職者を見回して溜息混じりに言う。
「現在の情勢では、現職のミェーフ大統領の再選は、ほぼ間違いないでしょう」
「国が再統合すれば、善き業で、これまで以上に助かる人が増えますね」
「レーグルス王子の脳解毒薬があれば、薬物依存症関連の問題も一気に解決しますよね」
教職員たちが明るい顔で口々に言う。
理事長は暗い顔で話を続ける。
「だからこそ危険なのです。我々には、神学生の身の安全を確保する義務があります」
教職員たちは水を打ったように静まり返り、表情を消した。
理事長が険しい表情で説明する。
「反対派……星の標などが決選投票を妨害するテロを起こす可能性があります」
「あッ……!」
大会議室に緊張が走った。
「八月……夏休み期間に実施される決選投票はともかく、七月に行われる国家再統合に関する国民投票が問題なのです」
「えぇっと……どのような問題があるのでしょう?」
体育教諭が、わかった上で、予想が外れて欲しいと祈るような声で聞く。
理事長の隣に座った学長が、ひとつ溜息を吐いて口を開いた。
「戦時中も、投票所付近で魔獣召喚テロがありました。当時は、ネモラリス人のテロリストが、単に人が集まる場所を狙った犯行でしたが、今回は、国家再統合反対派が国民投票を妨害する目的で、薬物依存症で亡くなった方のご遺体を放置するなどして実行する可能性があります」
予想通りの答えで、大会議室が落胆に包まれる。
理事長が教職員たちを見回して言った。
「我が校では、下は七歳から上は十八歳まで、親御さんからお預かりした大切なご子息が、宿舎で暮らして日々学んでおります。初等部と高等部では、採り得る安全対策が異なるのです」
「あの……先程、フラクシヌス教団の方々が【道守り】で結界を巡らせて下さいましたし、投票の前日にもお越しいただければ、なんとかなるのでは?」
数学教諭が手を上げて発言した。
教職員と聖職者の目が、この場で唯一人の魔法使いアミエーラに注がれる。
音楽の非常勤講師アミエーラは、ペットボトルの水を一口飲んで答えた。
「結界術は、外部からの侵入は防げますが、結界の内部で発生したモノは防げません」
「えッ? どう言うコトですか?」
体育教諭が一同を代表して質問した。
「結界の内部で、死体などを扉にして出現した魔物や魔獣は、結界の外に出られないんです」
「テロリストが敷地内に死体を持ち込むのを防げばいいんですよね? あんな大きな物体、目立ちますし、大丈夫でしょう」
「人間の死体丸ごとではなくても、腕一本とか鼠の死骸ひとつとか、鞄に隠して持ち込める大きさでも危ないんです。戦時中の魔獣召喚テロも、鼠とかの死骸を人目につかない場所に放置した例がたくさんありましたし」
アミエーラが、事実を指摘して体育教諭の希望的な発言を否定すると、場の空気が一気に冷え込んだ。
「投票日はどちらも真夏ですから、すぐに腐敗して、異界との扉を開く危険性が上がります」
魔術に疎いキルクルス教徒の聖職者と教職員が、この場で唯一の魔女を恐ろしげに見詰める。
「死体以外にも、呪符や禁制品の【召喚布】などの魔道具を使えば、テロリストが無原罪の清き民でも魔物を召喚できてしまいます。実際、戦時中に元神学生のテロリストが、アーテル各地の学校園で【召喚布】を使って土魚を大量に呼出したせいで、今も大勢の方々が苦しめられているワケですし」
静まり返った大会議室にアミエーラの声だけが響いた。
☆八月に大統領選挙……「2968.大統領の警護」参照
☆平和を掲げて当選したヒュムヌス大統領……「2438.凶弾に斃れる」参照
☆視察に訪れたミェーフ大統領が狙われ……「3113.神学生の異変」「3114.保健室の医薬」参照
☆戦時中も、投票所付近で魔獣召喚テロ……事前の対策「1341.何の為に働く」→投票日の様子「1344.投票所周辺で」参照
☆【召喚布】を使って土魚を大量に呼出し……「1698.真夜中の混乱」~「1700.学校が終わる」参照
 




