3411.逆の立場なら
今日も、租借地の仮設アルブム港湾病院の食事は、三食とも拳大のパンが二人で一個とコップ一杯の水だけで終わった。
ひもじい筈だが、バルバツム連邦陸軍のデルタ伍長には空腹感がない。隣の病床で幻肢痛に苦しむ部下も、食事の不満は口にしなかった。
文句を言える立場ではないからだ。
バルバツム兵を名乗る女性が、ラキュス・ラクリマリス王国の王族出身の医官を動画で告発し、性犯罪者に仕立て上げた。
この動画は、バルバツム連邦のみならず、世界中の共通語話者……つまり、キルクルス教徒に拡散。聖者の信徒を穢した異教徒の王族を断罪する声がインターネットに溢れた。
彼は単なる王族ではない。
ラキュス・ネーニア王家出身の呪医は、フラクシヌス教徒にとって神にも等しい存在だ。
もし、聖者キルクルス・ラクテウスを無実の罪で性犯罪者呼ばわりされれば、信仰心の篤いキルクルス教徒は怒り狂うだろう。
キルクルス教徒は、無差別殺人など世俗の罪人に対しては、許しを与えるよう、被害者に圧力を掛けるが、信仰上の罪に対しては、寛容性の欠片もない者が多かった。
何年か前、キルクルス教徒が多数派を占めるクレマストラ連合王国で、異教の聖者を皮肉る風刺画が新聞に掲載された。
その宗教の聖職者や信徒たちは当然、不快感を示したが、キルクルス教徒もクレマストラ政府も「表現の自由だ」と言って憚らない。
その対応が火に油を注ぎ、新聞社が襲撃されるテロにまで発展したが、キルクルス教社会は被害者面で異教のテロリストを批難した。その宗教の聖典をキルクルス教会の前で燃やし、テロに抗議する者まで現れる始末だ。
多くのキルクルス教徒は現在も、異教の聖典を燃やした彼を英雄視する。
決して謝罪しないキルクルス教国側と、誹謗中傷の被害を受けた宗教を信仰する国の間で、外交問題にまで発展。クレマストラ連合王国から外交官を引き上げた国が幾つもある。
キルクルス教徒側が他者の信仰を踏み躙らなければ、発生しなかったテロと軋轢なのだ。
キルクルス教圏では、聖者キルクルス・ラクテウスを揶揄する風刺画など存在しない。もし、描いたとしても、その後の身の安全や生活上の不便を考慮すれば、公表できるものではなかった。
少なくともデルタ伍長は、異教徒側が、聖者キルクルスを皮肉る風刺画や、キルクルス教の聖典を燃やすなど、キルクルス教徒の信仰を踏み躙る行為をしたと言うニュースを目にしたことはない。
異教徒は怒りを言語化し、対話を試み、それでもキルクルス教圏の人々が謝罪や反省の様子を見せなかったから、「形は人間に似ていても言葉が通じない生き物」を見せしめに始末する為、新聞社を襲撃するテロに走ったのだ。
テロは決して褒められた行為ではないが、そこに至る経緯を考えると、新聞社やキルクルス教徒を「一方的な暴力にされされた被害者」であるとは言えなかった。
バルバツム軍の視点では、詐欺師に名を騙られたせいで多大な人的損害が発生する羽目に陥った被害者だが、フラクシヌス教徒視点では、キルクルス教徒全員が詐欺師に加担し、神に等しい存在を寄って集って侮辱した大罪人なのだ。
逆の立場なら、キルクルス教徒は異教徒を決して許さない。
そう考えると、フラクシヌス教徒が運営する病院でのバルバツム兵に対する仕打ちは、理不尽ではあるが、正当に思え、考えれば考える程、何も言えなくなる。
……動画をアップした嘘吐き女が警察に捕まったくらいで許してもらえるとは思えないんだよなぁ。
粉砕骨折した両足が別の生き物のように疼くが、処方されたのは魔法薬の解熱剤だけで、鎮痛剤はない。科学の解熱剤は大抵「鎮痛解熱剤」で、痛みも同時に軽減されるが、魔法薬は完全に別物らしい。
例の動画が公開される前なら、鎮痛剤は出せなくても、気持ちを落ち着かせる薬用茶は出してくれた。
今は、魔法使いの薬剤師にそんな話をできる雰囲気ではない。
デルタ伍長は意識を激痛から逸らす為、タブレット端末を弄った。すっかり入院慣れしてしまい、ポケットには常に充電器を入れてある。
今はまだ、病院の電源を使っても何も言われないが、事態の動きによっては、これもどうなるか知れたものではなかった。
湖南語のポータルサイトを開いて、ニュース一覧に目を通す。
脳解毒薬の副作用、その後
見出しの文字列に触れる指先が震える。
デルタ伍長は、ひとつ深呼吸して記事本文に目を走らせた。
実名などは一切ないが、予想通り、内容はデルタ伍長の元部下リグヌムに関する記事だ。
……一歳児並の知能にまで回復……か。
租借地の病院で脳解毒薬の投与を受けたリグヌムは、重篤な副作用が出て脳が初期化された。
すべての知識と経験を失い、赤ん坊のように泣くことしかできなかったが、一年余り経った現在は、喃語を話すところまで脳が生育したと言う。
普通の赤ん坊の成長速度と同じだ。
デルタ伍長は、甥っ子の成長を思い返して納得した。
記事によると、育児経験のあるいい家政婦さんを雇えたお陰で、リグヌムの兄夫婦は、娘の育児と弟の介護を並行して、在宅仕事と家事をどうにか回せるらしい。
……でも、まだ、二十分の一なんだよなぁ。
単純に考えれば、彼の頭脳が脳解毒薬を服用する直前と同程度に生育するまで、後十九年は掛かる計算だ。
その時、肉体は再就職がかなり難しい年齢になる。
家族の負担を思えば、知能が成人に達する前に就職してもらうしかないだろう。だが、中年男性の肉体に子供の頭脳と精神で働くのは、様々な困難が付き纏う。
リグヌムの将来を思うと、デルタ伍長の気持ちは沈んだ。
……俺があれこれ考えたってどうしようもないんだけどな。
デルタ伍長は租借地の病院に居た頃、リグヌムの兄リゴーにデルタ伍長の実家のある田舎町への転居を勧めた。
リゴーが、「弟を虐待して薬物に走らせた原因の母から逃れたい」と言うのが耳に入ったからだ。
デルタ伍長は、故郷の家族に「部下の一家が近所に引っ越すかもしれない」と連絡。事情を聞いた両親は、もし、彼らがこの町に来るなら、それとなく助けると請合ってくれた。
デルタ伍長自身はなかなか帰国できず、直接様子を見ることが叶わないが、母が時折知らせてくれるリグヌムの様子は、記事の通りだ。
……湖南語圏からバルバツムに出張してちゃんと取材して記事書い……えッ?
ルスタートル司令官の判断で、リグヌムは違法薬物を使用した件を不問にされ、兵役義務中に発症した精神疾患扱いで除隊された。
リグヌムの兄リゴーは、虐待親との関係を断つ為に夜逃げ同然で引っ越した。バルバツム連邦内ではあるが、別の共和国で、簡単にはみつからないだろう。
リゴーは、勤務先と妻の身内にも、転居先を決して両親に教えないよう、念入りに頼んだと言った。
……この記者、どうやって居場所を突き止めたんだ?
ポータルサイトに記事を配信した新聞社名で検索する。マコデス共和国にある中小の新聞社で、おっさん受けするゴシップ記事が中心の三流紙だとわかった。
……こんな新聞社がわざわざ外国に出張してまで調査報道を?
記者の署名はない。
デルタ伍長には、署名記事とそうでない記事の違いがわからなかった。
新聞社にこの記事の執筆者について問合わせたところで、答えてくれるとは限らない。
……でも、ここからの発信なら、記事に興味を持ったアーテル人だと思って答えてくれるかも?
アーテル共和国では、鎮痛剤系違法薬物による依存症が重大な社会問題だ。
脳解毒薬の治験も、魔法薬学会による承認も、アーテルの報道機関は大きく取り上げた。ポータルサイトの閲覧者が興味を持っても不自然ではない。
デルタ伍長は、両足の痛みも忘れて問合せの文面を練り上げた。




