0330.合同の演奏会
翌朝早く、ソプラノ歌手のオラトリックスが迎えに来た。
手際良く化粧を施し、かつらを整えて、ラクエウスを竪琴奏者の老婦人「ハルパトーラ」に変装させる。
鏡を見て、ラクエウス……ハルパトーラはつくづく、オラトリックスの化粧の腕前に感心すると同時に空恐ろしくなった。
……魔法を使わずここまで姿を変えられるとは……女とは、底知れぬものだな。
妻の面影を思い出そうとしたが、遠い記憶は朧に霞む。
昨日の夢と同じで、思い出そうとすればする程、その手からするりと零れ落ちてゆく。子供たちの面影も、記憶の彼方で懐かしい日々の光に溶けて消える。
内乱中は物資が不足し、化粧品などの贅沢品は手に入る物ではなかった。
国立のラキュス・ラクリマリス交響楽団の一員だったとは言え、まだ若かったラクエウス……当時は「ハルパトール」と呼ばれた彼の月給では、ヤミで出回る化粧品をひとつも買ってやれなかった。
力ある民なら、【魔力の水晶】に魔力を注いで物々交換を有利にできる。汎用性と実用性を兼ね備えた魔法の品は、いつでも高価なものと取引される。
力なき民でキルクルス教徒のハルパトールの給料は、全て現金で支払われた。現金も汎用性は高いが、実用性が低い。物資の不足に正比例して物価が上昇し、子供たちにも、ひもじい思いをさせてしまった。
身を守る力を持たないハルパトールの妻子は、半世紀の内乱中に殺された。
内乱の半ば頃には、各勢力が入り乱れた戦闘が頻発した。
どの勢力に殺されたか、味方の流れ弾が当たったのか、便乗した物盗りの犯行なのか。報せを受けて駆け付けたハルパトールには、仇が誰か知る術もなかった。
庭に出て、スニェーグの【跳躍】の術に身を委ねる。
……儂の信仰心は、この程度のものだったのか。
最初こそ抵抗があったが、今ではすっかり慣れてしまったことに自嘲する。
力ある言葉の詠唱が終わると、景色が一変する。
リャビーナ市民ホールは、半世紀の内乱前にラキュス・ラクリマリス交響楽団の一員として訪れた頃とは、すっかり様子が変わった。内乱中に破壊され、再建されたからだ。寂しいような、情けないような気持ちになる。
……いや、聖者の教えは、三界の魔物の惨禍を再び起こさぬ為のものだ。
魔術の暴走によって、人々の生命が失われぬよう、個人の能力や性格に左右される魔術ではなく、知恵を出し合い、誰でも使える技術で世界をよくしようとの趣旨だ。
聖者キルクルスは、魔法使いや異教徒を根絶やしにせよとは言わなかった筈だ。聖典の「魔術は悪しき業である」との記述は、決して科学技術を使った大量虐殺の許可証ではない。
……聖者が真に求め、人々に説いたのは、人間の過ちで人間が殺されることのない平和な世界だ。
老婦人ハルパトーラ姿のラクエウスは顔を上げた。
会場の入口には可動式掲示板が置かれ、手書きされた曲目案内が貼り出される。
物資の不足と高騰で、アマチュア演奏会のパンフレットは印刷できなくなってしまった。
今日のコンサートは実質、四曲しかない。天気予報のBGM「この大空をみつめて」「国民健康体操」「神々の祝日の為の聖歌メドレー」、そして、民族融和を願う未完の曲だ。
聖歌メドレーだけで三十分以上あり、「この大空をみつめて」は交響楽版と合唱版で二回演奏し、未完の曲も、主催者のMCのBGMと、全体の共演がある。
アンコールも含めれば、それなりの時間になった。
スニェーグとオラトリックスに続いて廊下を抜け、新しくなったリャビーナ市民ホールの楽屋へ向かう。
既に半数程の団員が集合する。
「リャビーナ市民楽団の方々は別室ですが、先生、お会いになられますか?」
「いや、本番前の忙しい時だ。遠慮しよう」
「先生、そこは『いいえ、本番前の忙しい時ですもの、遠慮します』ですよ。話し方でバレてしまいますよ」
「あっ……」
オラトリックスの指摘で女装したのを思い出す。スニェーグと顔を見合わせ、苦笑した。
「おはようございます。えーっと……ハルパトーラ先生」
「……おはよう」
前回のコンサートで変装を手伝ってくれたマリンバ奏者が、躊躇いがちに挨拶する。ラクエウスは、老婦人らしい声色を作って答えた。
彼女はホッとして肩の力を抜き、今日のスケジュールを一同に説明した。
「みんなが来たら一度、舞台で合奏団と共演する曲だけ合同練習します。ほとんどぶっつけ本番みたいなものですけど、みなさん、よろしくお願いします」
それぞれが楽器を携え、舞台に上がる。
リャビーナ市民合唱団は、無人の客席に向かって発声練習する。市民楽団も合唱団に会釈して配置についた。
別々で短期間とは言え、志を同じくし、同じ譜面で練習を重ねてきた。本番直前のこれは、最初で最後の合同練習と言うより、最終確認のようにぴったり息が合い、難なく終えられた。
照明などの調整が済み、緞帳が降ろされた。
入場時間を迎え、客席の扉が開く。足音と話し声が、満ちゆく潮のように会場に溢れる。
客席のざわめきが落ち着き、咳の音も密やかになる。
開演ブザーが鳴り響き、緞帳が上がった。
☆前回のコンサートで変装……「0295.潜伏する議員」参照
☆天気予報のBGM「この大空をみつめて」……「0170.天気予報の歌」参照
☆「国民健康体操」……「0243.国民健康体操」「0272.宿舎での活動」参照
☆「神々の祝日の為の聖歌メドレー」……「0295.潜伏する議員」「310.古い曲の記憶」参照
☆民族融和を願う未完の曲……「0259.古新聞の情報」「0268.歌を探す鷦鷯」「0305.慈善の演奏会」参照




