0033.術による癒し
湖の民の呪医も少しは休めたのか、幾分か表情に余裕が見て取れた。
「こんにちは。私、アガート病院の薬師です。少しだけなら治療の術も使えますけど、お手伝いしましょうか?」
「ありがとうございます。でも、あなたの職場は大丈夫なんですか?」
「……わかりません。電話は不通でした。それに、昨日の時点で、動ける患者さんには自主避難していただいて、私も、帰れって言われたので……」
アウェッラーナは周囲にも聞こえるよう、声をやや大きくして事情を語った。
確証はないが、恐らく、アガート病院に行っても治療は受けられないだろう。
避難者から溜め息が漏れた。
ジェリェーゾ区より西にあるミエーチ区ですら、避難が始まっている。
一体、どこへ逃げればいいのか。
疲労と睡眠不足と空腹で、不安や苛立ちを誰かにぶつける気力もない。
「どの術が使えますか?」
「梟の【薬即】とか青の【癒し】とか、ホント、簡単なのしか使えないんですけど、何もしないよりマシかなって……」
呪医の質問に答える内に、自分ごときが癒し手を名乗るのは、烏滸がましいのではないか、と声が小さくなって行く。
アウェッラーナの様子に、呪医はやさしく微笑んで言った。
「薬師でそれだけ出来れば、充分ですよ。グラウンドには、軽傷者が大勢居ると聞きました。ご無理のない範囲で、お願いします」
「私でお役に立てましたら……」
アウェッラーナは一礼して、グラウンドに向かった。
昨日、道を埋め尽くして犇めいた車は大幅に減っていた。時折通る車は、警察や軍の車輌ばかりだ。
グラウンドには、軍のトラックが一台停まって食糧の配給をしていた。
こちらも人がかなり減っている。
「薬師でーす! 今から青の【癒し】を唱えます! 怪我してる人は集まって下さーい!」
アウェッラーナは軍用トラックの傍らに立ち、元気いっぱいの笑顔を作って声を掛けた。
【青き片翼】学派の呪歌【癒しの風】は、外傷を広く浅く癒す。対象は、声と魔力の届く範囲に居るこの世の生き物すべてだ。
打撲や擦り傷、軽い火ぶくれ、足を踏まれて爪が割れたなどと言う人々が、アウェッラーナの周囲に集まる。
アウェッラーナは大きく息を吸い込み、ゆっくりと呪文を唱えた。
「青い翼 命の蛇呼んで 無限の力 今 ここに来て
翼 はたはたと 癒しの風を送る ひとつの風を……」
力ある言葉に魔力を乗せ、童歌のような独特の節回しで詠じる。
子供でも使える初歩的な術だ。
【青き片翼】学派の術は全て、生殖行為を行ったことのない者でなければ、行使できない。
どんなに魔力が強く、呪文を正確に唱えようとも、身体的条件を満たさない術者では、術の効力が発現しない。
治療に関する術は、本来死すべき者を癒し、この世に留める術だ。
それ故、この世に新たな生命を殖やす行いをすれば、使えなくなるのだろう。
術理解析を行う【舞い降りる白鳥】学派の研究者たちはそう主張するが、真相は誰にもわからない。
ただ、大抵の大人が、癒しの術を使えないことは、事実だ。
「泣かないでね この痛みすぐ癒す 今から心こめ癒すから
命 繕って 苦しみ去って 元気になった 見て ほら……」
アウェッラーナの周囲に集まった人々の痣が消える。
擦りむいて破れた皮膚が再生し、かさぶたが剥がれ落ちる。
割れた爪が、滑らかな一枚になる。
アウェッラーナ自身の顔も火ぶくれが縮小し、詠唱を終える頃には、元の卵のような肌に戻った。
人々が口々に礼を述べ、無償で治療を行った薬師から離れる。
食糧を配給する兵士が、敬礼して一人分の非常食パックを差し出した。
「お世話様です」
「ありがとうございます」
アウェッラーナは笑顔で受け取り、鞄に仕舞った。
児童公園に移動し、火災に炙られ焦げた遊具に腰掛ける。
ラキュス湖は相変わらず、冬の陽を浴びて穏やかに輝く。
……食べ物は、魚を獲ればいいか。
半世紀の内乱時代、父から【漁る伽藍鳥】学派の術も教わった。
河や湖に出られれば、少なくとも飢える心配はない。
テロリストはキルクルス教徒だ、と警察の関係者が言っていた。
夜なら、鉢合わせすることはないだろう。
キルクルス教の神のご加護とやらは、彼らを魔物から守ってくれるものではない、と聞いたことがある。
アウェッラーナは、積極的に魔物を退治する【急降下する鷲】や【飛翔する鷹】学派の術は知らない。
それでも、日々の暮らしに必要な【霊性の鳩】学派の【簡易結界】や【魔除け】【退魔】で、自分の身ひとつなら守れる。強い魔物には通用しないが、この辺りの平野や島周辺の湖上なら、それで充分だ。
……山へ行く用事なんてないし、きっとみんな、船で避難してるのよ。
和平合意で、ラクリマリス王国との国境と定められたクブルム山脈は、多数の魔物や魔獣が棲息する。
クブルム山脈は、ラキュス・ラクリマリス王国時代からずっと軍が常駐し、鉱山労働者の警護をしていた。
今もそうだろう。
リストヴァー自治区は、クブルム山脈の裾野にある。
山へ行くには西のゾーラタ区か南のピスチャーニク区、或いは自治区を通らねばならない。
こんな状況で、アウェッラーナの一族がわざわざ、土地勘のない自治区に近付くとは思えなかった。
☆アガート病院/動ける患者さんには自主避難/私も、帰れって言われた……「0007.陸の民の後輩」参照
☆和平合意……「0001.内戦の終わり」参照
設定などの詳細は「野茨の環シリーズ 設定資料」でご覧ください。




