0032.束の間の休息
二月二日。
アウェッラーナは夜が明けてから、警察署で電話を借りたが、不通だった。火災で、電話線が断線してしまったのかもしれない。
警察署の建物自体もボロボロで、いつ倒壊してもおかしくない。
住民と警察職員が会議用の長机と椅子を運び出し、公園と駐車場に風除けなどを作っていた。
食糧はないが、警察署の水道はまだ使える。
病院と警察でコップや食器を掻き集め、避難民に飲料水を配った。
「水しかないのか」
「我々だって、昨日から飲まず食わずで不眠不休なんだ」
詰め寄る避難民に、警察署員が声を荒げる。詰め寄った男はその剣幕に怯み、すごすご引き下がった。
「罵って飯が食えるんなら、みんなそうしてる」
「お水がいただけただけでも、ありがたいやねぇ」
他の住人が、聞えよがしに言うのを横目で睨みながら、男はどこかへ行った。
アウェッラーナは受け取った水を飲み干した後、ぼんやり空を見上げた。
鞄の中身は、財布とハンカチ、空っぽの水筒、化粧ポーチ、筆箱、手帳、携帯用の裁縫道具、手袋。家が焼けてしまった今、これがアウェッラーナの全財産だ。
風が吹く度に焦げ臭い空気がまとわりつくが、東の空に煙はなかった。燃える物は全て焼き尽くしたのだろう。
昨夜は結局、一睡もせず【魔力の水晶】と【魔道士の涙】がなくなるまで傷薬を作り続けた。
アガート病院に連絡しなければならない。
湖に出て、家族の船を探さなければならない。
すべきことはあっても、動く気力が湧かなかった。
「あなた、こっちで休みなさい」
年配の女性薬師に手を引かれ、アウェッラーナは病院の裏手に連れ出された。
職員用駐車場に乗用車が三台ある。そのいずれにも、シートを倒し、毛布に包まって眠る人が見えた。
「交代で休んでるから」
年配の女性薬師は、一台の車の後部扉を開けた。
座席の上に丸めた毛布が一枚ある。運転席と助手席で湖の民が寝息を立てていた。アウェッラーナは促されるまま、毛布に包まった。
「鍵を掛けなさい」
「この戸閉ざせ 故なく開くべからず 固く閉じよ “水”の鍵の声聞くまで」
乗用車のドアと言うドア、ボンネットやトランクまで、術の【鍵】が掛かった。
薬師は、ドアの内鍵を物理的に閉めるよう言ったつもりだった。術の方が安心だと思い直し、そっとその場を離れる。
アウェッラーナはそれで力尽き、深い眠りに落ちた。
「起きて。起きてちょうだい!」
知らない声で、アウェッラーナは目を開けた。
よくわからない場所に居る。状況が把握できず、ぼんやりしていると、更に別の声に言われた。
「ちょっと、起きて! 【鍵】を掛けたのはあなた? 早く開けてちょうだい」
「……【鍵】……? あぁ、えーっと、合言葉……水……ウァダー」
ようやく目が覚め、座席に起き上りながら、解除の合言葉を呟く。
車のドアと言うドア、ボンネットやトランクまでもが音を立てて一斉に開いた。外で待つ看護師たちが慌ててトランクとボンネットを閉める。
「あ……すみません」
まだ少しぼんやりしているが、何とかそれだけ言うと、アウェッラーナも車を降りた。
中年の女性看護師が、アウェッラーナの肩をポンと叩いて笑う。
「いいのよ。魔法の鍵の方が安心だもの。もし、余裕があればでいいんだけど、もう一回、掛けてくれない?」
まだ眠いが、【鍵】くらいなら掛けられそうだ。眠気の抜けきらないけだるい声で応じる。
女性看護師四人が席で毛布に包まると、アウェッラーナは、うっかり掛けた時と同じ合言葉を織り込み、【鍵】の呪文を唱えた。
日がすっかり高い。
吐く息が小さな雲のように流れた。魔力を持たない人々が震えている。雲ひとつない晴天だが、気温は低かった。
一緒に眠った看護師二人と共に警察の駐車場へ戻る。
一角に人集りがある。
負傷者の治療は粗方終わったのか、かなり減っていた。
明るくなってから、被害を受けていない地域へ移動したのか、身内の安否を尋ねに焼け跡へ向かったのか。
年配の男性薬師がアウェッラーナに気付き、小走りに近付いてきた。
「あぁ、居た居た。ご協力ありがとうございます。あなたも呪医の先生に癒してもらって下さい」
「私も……?」
「……お顔の……火傷……」
男性薬師が、言い難そうに目を逸らす。言われてやっと気付いた。昨日、自宅に戻った際、炎に煽られて髪が焦げたのだ。
……あぁ、そっか。ほっぺがヒリヒリするの、火傷だったんだ。
駐車場の隅に行き、水道の行列に並ぶ。
十数人の列はすぐに捌けた。アウェッラーナも、水筒一杯分だけ水を汲み、すぐに離れる。
人の少ない所で水筒の水を半分だけ起ち上げ、まず顔を洗った。
火傷に染みて痛い。
一旦汚れを捨てて口をすすぎ、また汚れを捨てる。
体と服を同時に洗い、洗う部分を変える度に、溶け込んだ汚れを水から抜いて捨てた。最後に靴と足を洗って、ホッと息を吐く。
理論上キレイでも、気分的にイヤなので、身体を洗った水は植込みに流した。水筒を鞄に仕舞い、車のサイドミラーで顔の火傷を確認する。
……このくらいなら、自分で治せるわ。
アウェッラーナは駐車場の人集りに近付いた。集まった人々の顔が暗い。
「おい、これ、どうなるんだよ?」
「国は、どうする気なんだ?」
人垣の隙間から覗うと、新聞の号外がチラリと見えた。
「自治区民 武装蜂起」と大きな見出しに、一回り小さい見出しで「アーテル共和国 関与か」と続いている。
アウェッラーナが知ったところで、どうにもならない大きな話のようだ。
ひとつ溜め息を吐いて、呪医の居る場所へ足を向けた。
☆昨夜は結局、一睡もせず(中略)傷薬を作り続けた……「0024.断片的な情報」参照
☆アガート病院に連絡……「0007.陸の民の後輩」参照
☆昨日、自宅に戻った際……「0008.いつもの病室」参照
☆国は、どうする気……「0025.軍の初動対応」「0026.三十年の不満」参照




