0031.自治区民の朝
日が暮れても煙は収まらず、父娘は煙たさで殆ど眠れなかった。
隣近所からも、夜通し咳込む声が聞こえる。どこも同じらしい。
それでも、朝になると寝不足の頭を振って、外へ出た。
仕事が休みの日は、一日一食だ。
何も食べずにシーニー緑地へ向かう。
沿岸のバラック地帯は、ラキュス湖の塩分を含む為、農耕に適さない。この辺りの土では、家庭菜園もできなかった。
父娘は慣れた足取りで、バラック小屋を縫う獣道同然の通路を行く。
上下水道がなく、地区の共同トイレは日に二回、朝と夕方に汲み取りの係員が来る。専用車で屎尿を回収して、肥料の製造工場へ持って行く。
二月二日、祝日の今朝も、いつも通りの光景が広がっていた。
……今日は何の日だっけ……? 自治区に「最初の学校ができた日」……だったかな?
祝日と言っても、学校や工場などが休みになるだけで、アミエーラたちはいつも通りに日々を過ごす。業種によっては、曜日も祝日も関係なく働いていた。
娘が先に立って、通い慣れた坂道を上る。
アミエーラの勤務先は、団地の商業区域にある。客は専ら、団地地区の裕福な住人だ。
配達を終えた新聞屋の少年が、坂を駆け下って来た。
必死の形相で何か叫ぶが、内容は聞き取れない。ただ、切羽詰まった様子で、何か尋常ではないことが起きたらしい、とだけ思った。
父が、近付くまで来た少年に声を掛ける。
「どうした? 何があった?」
「大変だ! 大変なんだッ!」
「あぁ、大変はわかった。何があった?」
少年は足を止め、しどろもどろに答えた。
「大変なんだ! せっ戦争って!」
「戦争? どことどこが?」
父が少年の両肩を掴んで問う。
新聞少年は一気に捲し立てた。
「自治区の星の道義勇軍と、政府軍って、号外が出てるんだ! もう全部配っちまったから、下町のみんなには、お前が言って来いって言われたんだ!」
父娘は寸の間、時が止まったように黙りこんだ。
先に父が我に返り、少年を解放する。
「そ……そうか。ありがとよ。急いでんのに、すまんかったな」
「うん!」
父が手を離すと、少年は先程と同じように叫びながら坂を駆け降りる。二人は後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
「お父さん、どうする?」
「どうもこうも……まぁ、今日のところは予定通りやろう」
父が坂を上り始めたので、アミエーラも後に続いた。
……戦争……? 魔法使いに喧嘩売ったの? 冗談でしょ?
二人の足取りは重く、言葉もない。ただ、足元だけを見て坂を上る。
手には、土を持って帰る為のビニール袋と、土を掘るのによさそうな細い木片。アミエーラたちの家は、泥棒が同情して逆に何か置いて行ってくれそうなくらい、何もない。
戦う力は何もなく、二人には戦う理由もなかった。
アミエーラの母は、アミエーラが八つの年に病死した。弟妹も居たが、いずれも乳幼児の頃に亡くなり、何人居たのかも憶えていない。
父娘の肉親は、お互いだけだった。
逃げるにしても、どこにも行き場がない。
……昨日のあの煙。あれがそうだったんだ。
アミエーラの頭の中で、新聞少年の言葉と昨夜の出来事が繋がった。
寝不足と空腹で、何もかもに現実感がない。
時折、風向きが変わり、北から焦げ臭い空気を運んでくる。肌寒さと、恐ろしさに身の震えが止まらなかった。
坂の途中、団地とバラック地帯の間の斜面に、目的地のシーニー緑地が広がる。
ここまで来ると土地の塩分が減り、寒さに強い植物が元気に生い茂る。
振り向くと、東側はバラック小屋で埋め尽くされ、その向こうには湖岸沿いに建ち並ぶ大小の工場が見えた。
……戦争だなんて。みんなが戦えるワケじゃないし、戦いたいワケでもないのに。大体、私たちに何も知らせないで、いきなり始めるなんて、酷いじゃない。
事前に知っていれば、どこかに避難できたかもしれない。
自治区の北部と西部で隣接するゼルノー市が戦場だろう。
ならば、南のクブルム山脈を越えるしかない。
力なき民だけでは、魔物だらけのラキュス湖を渡れない。
クブルム山脈にも魔物は居るが、船を沈められるより、まだ助かる見込みがありそうな気がする。
命懸けで山を越えられたとしても、南のラクリマリス王国は魔法使いの国だ。
難民化した力なき民がどう扱われるか。
どちらを向いても、絶望しかないように思えた。
……父さんの言う通り、今はできることをするしかないのね。
アミエーラは、足元だけを見て緑地に入った。
枯れ草の隙間に嘔吐物がこびり付いている。アミエーラは顔を顰めて立ち止まった。
嘔吐物が動いた。いや、草の陰に隠れて生き残った雑妖だ。
アミエーラたちに驚いたのか、不定形の身体をくねらせる。雑妖が動いても枯れ草は動かない。この世のモノではないからだ。
風が吹き、草の隙間に光が差す。
朝日を浴びた部分が溶けて凹む。そこから、元々定かでない身体がぐずぐず溶け崩れ、あっという間に姿を消した。
雑妖は弱く儚い存在だが、力なき民にとっては充分、脅威になる。
自滅してくれたことにホッとして、アミエーラは蔓草を採った。
☆日が暮れても煙は収まらず……「0023.蜂起初日の夜」参照
☆予定通り……「0027.みのりの計画」参照




