0301.橋の上の一日
「クルィーロ、火、頼む」
「あ、あぁ……そうだ、後でこれもメモ渡すよ」
返事のついでに思いつきを口にすると、レノは瞳を輝かせて何度も礼を言った。
「これも、【魔力の水晶】でできる術なんだ?」
「石盤に呪文を彫った【炉盤】って知らないか?」
「こないだのお屋敷にあった」
「うん。その【炉盤】に【水晶】を嵌めて呪文を唱えれば、できる」
「じゃあ、今は無理か」
レノがみるみる萎れる。胸が痛むが、ないものは仕方がない。
クルィーロはなるべく明るい声で励ました。
「でもよ、呪文知ってたら、どっかの店で雇ってもらいやすくなるぞ」
「ん? ……あ、そっか。そうだな」
レノは少し考えて、無理矢理笑顔を作った。
クルィーロは、幼馴染の痛々しい笑顔から逸らした目を即席の【炉】に向ける。
ステンレスのトレーに油性マジックで範囲指定の円を描いただけだ。力ある民なら、たったこれだけで【炉】の術を安定して使える。
レノが聞き取りやすいよう、クルィーロはいつもよりゆっくり呪文を唱えた。
「日輪の小さき欠片 舞い降りよ 輪の内に 灯熱 火よ熾きよ」
いつもと変わらない小さな炎が、トレーの中で円を描いて踊った。
レノがフライパンに干し魚を乗せ、次々と焼く。ピナティフィダとエランティスが、焼き上がった魚をドーシチ市の屋敷でもらった木皿に盛り付けた。
旨そうな匂いが漂うと、少年兵モーフとメドヴェージがこっちを向いた。
北ヴィエートフィ大橋の袂では、まだ戦闘が続く。
兵士たちが放った【光の槍】が、空を飛ぶ魔獣を撃ち落とすが、新手が次々と森から現れ、一向に減らなかった。この距離であの大きさに見える。空飛ぶ魔獣は、乗用車くらいの大きさだろう。
石壁の中央分離帯は腰くらいの高さで、表面には橋を守る呪文がびっしり記される。この強力な【結界】や【魔除け】などのお陰で、こちらに来る心配はなさそうだが、食欲が湧く光景ではなかった。
みんな、なんとなく、西を向いてもそもそ食べる。
ラキュス湖の水平線の彼方には、湖西地方の南北に横たわるフィオリェートヴィ山脈がうっすら見えた。
湖西地方は湖南地方より強い魔物が多く、人間は住めない、と地理の時間に習った。大昔は国があったらしいが、三界の魔物に滅ぼされてから二千年以上、国らしいものができない。
いつの時代も、武装を整え、古代の遺跡へ赴く人々が絶えない。
クルィーロは幼い頃、絵本や昔話で遺跡を巡る冒険者に憧れた。
学術調査や盗掘、探険。強い魔獣と戦うのは、純粋な力試しや、魔法の道具や薬を作る素材を手に入れる為。人々は様々な目的で危険を冒す。
比較的安全な岸辺には、冒険者を相手にする商人の集落ができることもあった。だが、魔獣に蹂躙され、ひとつも長続きした試しがないと言う。
しっかりした建物を作る余裕はない。用心棒を雇い、何種類もの強力な防禦の術を用意して行っても、【水晶】や宝石に蓄えた魔力が尽きれば、あっと言う間に襲われるのだ。
彼らを喰らった魔獣は、魔力を蓄え更に強くなる。
スクートゥム王国がなければ、湖南地方は島嶼部を除いて、もっと危険だっただろう。
防人の国は、湖南地方西端のスヴェート河を守る。大河より西は魔物や魔獣の楽園、湖西地方だ。防人の民は、魔物や魔獣の侵入を阻止する【結界】を幾重にも施し、綻びから迷い込んだモノを狩って暮らす。
スクートゥム王国の北東隣は、アーテル共和国。フラクシヌス教の信者が多い魔法文明国と、キルクルス教を国教とする科学文明国には国交がない。
学校で湖西地方の現実を教わると、幼い日の夢物語はいっぺんに吹き飛んだ。
食後の片付けが終わってもまだ、戦闘は終わらない。
アマナが、クルィーロのマントに潜って作業服にしがみつく。
「怖かったら、中、入るか?」
クルィーロが声を掛けると、妹は小さく頷いた。
荷台に上がると、アミエーラが手の中で何か小さなものを縫うのが見えた。
「何作ってるんですか?」
「袋です。【水晶】を首から掛けておけば、すぐ使えると思って」
見せてくれたのは、掌の半分くらいの巾着袋だ。
アマナが針子の手元を覗いて言う。
「それだったら、私も作れるよ。お手伝いしていい?」
「ありがとう。じゃ、こっちの端切れ、好きなの使っていいよ」
「うん。ティスちゃん、一緒に作ろ」
アマナがレノの妹を呼ぶと、姉のピナティフィダも荷台に上がってきた。
「小さいから、待ち針じゃなくてクリップで留めると縫いやすいよ」
女の子三人は、針子のアミエーラの説明を神妙な顔で聞いて縫物を始めた。
クルィーロはホッとして、文房具を入れた木箱を開ける。
……アミエーラさん、頭いいな。
首から提げれば、落とさないだろう。
レノたち力なき民には、作用力を補う上等の【魔力の水晶】、クルィーロと薬師アウェッラーナは、単に魔力を蓄えるだけのものを持てば、いざと言う時、慌てずに済む。
万が一、離れ離れになっても、【魔力の水晶】なら一個で一日か二日分の食糧と交換してもらえる筈だ。
分散して持った方がいい。
……アミエーラさんって言うか、キルクルス教徒の人たち、どうするんだろう?
教義に従うなら、魔術の道具を持つなど、とんでもないことだ。
……まぁ、それ言い出したら、このトラックだって元から【結界】と【魔除け】が掛かってるし、俺やアウェッラーナさんと一緒に居ること自体、ダメだろうし。
湖の民の薬師は、北ヴィエートフィ大橋の方を向いて荷台の外に立つ。その緑髪が湖面から吹き上がる風に煽られ、初夏の太陽を受けた梢のようにきらめく。
外見こそ、中学生くらいの少女だが、半世紀の内乱中に生まれたと言う。この中では最年長だ。
そう考えると、少し不思議だ。
ソルニャーク隊長たちは、魔術を全否定するキルクルス教徒で、陸の民。
クルィーロたちは内乱後の生まれだが、フラクシヌス教の信者で陸の民。
フラクシヌス教の湖の女神派で、湖の民の彼女から見れば、他のみんなの属性は「かつての敵」だ。
四カ月前のテロだけでも、星の道義勇軍の三人は、自治区民のアミエーラを除く「みんなの敵」だ。
きっかけはどうしようもない成行きだが、今もこうして、いがみ合わずに行動を共にする。
もし、他のゼルノー市民に出会っても、クルィーロにはこの状況を巧く説明できる自信がなかった。
日が落ちても、ラクリマリス軍と魔獣の群の戦闘は終わらない。
六月とは言え、橋の上は吹き晒しだ。荷台の扉を半分閉めて、毛布に包まった。クルィーロとアマナは、術が掛かったマントのお陰で寒さはそうでもないが、やわらかな毛布ですっぽり覆われると安心する。
風で橋が揺れた。
「お兄ちゃん……」
アマナが作業服を握る手に力を入れる。クルィーロは妹の肩をやさしく叩いた。
「大丈夫だ。橋とかビルとか、大きい建物はわざと揺らして、壊れないようにしてるんだよ」
「そうなの?」
「あぁ。絶対動かないようにガッチリ固定したら、風や地震で強い力が加わった時、その力が一カ所に集中して、そこから壊れるんだ」
アマナはしばらく黙って考えたが、毛布の中から兄を見上げて質問した。
「どうして、わざと揺らしたら壊れないの?」
「力が分散してどっか行くから、一カ所に無理が掛からなくなるからだよ。詳しい原理は俺も知らないけどな」
「何となくわかった。ありがと」
この戦闘で、また開戦直後のように喋れなくなるのではと心配したが、妹の明るい声でホッとした。アマナを抱きしめ、小さな背を撫でて寝かしつける。
今夜は見張りを立てなかった。
この北ヴィエートフィ大橋の護りは堅牢で、移動販売店プラエテルミッサの他は誰も居ない。
風に乗って時折、微かに戦闘の音が聞こえた。爆音が轟く度に閉じた瞼の向こうで光が閃く。
大橋を守るラクリマリス軍の兵士は無事だろうか。
……魔獣、俺たちが連れてったようなもんだよなぁ。
一本道の行く手を塞がれ、他に行き場がなかったとは言え、罪悪感を覚えずに居られない。
また「難民のせいで」と、ラクリマリス王国政府や国民から風当たりが強くなる懸念が、蛇のように首をもたげる。
ラクリマリス王国領に留まる他の難民たちも、肩身が狭くなるのではないか。援助を打切られたら、いや、国交を断絶されたら……
クルィーロは、大地に根を巡らす樫の大樹を思い、暗い方へ転がろうとする考えを押し留めた。
……兵隊さんは、魔獣が他の街へ行かなくてよかったって言ってた。
プラーム市側から来た家畜を運ぶトラックが襲われた場合を想像してみる。
移動販売店と同じように街へ逃げれば、魔獣の群を案内してしまっただろう。プラーム市の防壁で防げればいいが、そうでなければ、もっと大変なことになったかもしれない。
夜間は陽光の浄化がない分、魔物や魔獣が活気付く。だが、ラクリマリス軍は、今回の戦争では中立で、人員は充分な筈だ。
……大丈夫。魔装兵はこっちの方がずっと強いだろうし。
自分に言い聞かせ、クルィーロはなんとか目を閉じた。




