0299.道を塞ぐ魔獣
少年兵モーフが小部屋に入り、運転席に声を掛ける。
「おっさん、今度は何だよ?」
「わかんね……化け物だッ!」
ヒュッと息を呑んだメドヴェージが、叫ぶと同時に急ハンドルを切った。前方に何が居るか、荷台からは全くわからない。交換したばかりのタイヤが、悲鳴に似た軋みを上げ、車体が大きく傾きながら急旋回した。
女の子たちが声もなく、それぞれの兄にしがみつく。
車体全体が直線コースに入った瞬間、加速する。法定速度を越え、警告音が鳴り響いた。
助手席のファーキルが状況を叫ぶ。
「道の先に魔獣が居て、こっちに気付いたんです! 何か、周りの木が薙ぎ倒されてて、そいつらが暴れたっぽいです」
「トラックよりデケェ化けモンだッ!」
係員室の小窓から覗いた少年兵モーフも叫んだ。
「それと、森の……木がねぇとこに、あの真っ黒の奴も居た!」
薬師アウェッラーナの脳裡に放送局の一夜が甦った。
少年兵モーフと共に見張りをした時、放送局前を横切った闇の塊。あれは、この世に何匹も迷い出た魔物の一種だったのか。
レノ店長が「焼け跡で見た」と言ったのを思い出した。
……あんなワケのわからない魔物が、ラクリマリス王国領にも居たなんて。
アウェッラーナは、世界のあちこちに異界との接点があり、魔物たちはそこからこの世へ迷い出ると教わった。
接点の深さや異界の地理的条件によって、魔物の出現と分布が異なる。この世の動植物同様、迷い出る魔物や、この世に定着した魔獣の分布には、多少の法則があるのだ。
地元で注意すべき魔物や魔獣は、学校や警察の防犯教室、地域のお年寄りからも教えられる。
草食性で脅威にならない大人しい魔獣も存在するが、大抵は人間に有害だ。どう逃げればいいか、性質や弱点はアウェッラーナもそれなりに学んだ。
だが、あんな闇の塊は、見たことは勿論、聞いたこともない。
……テロか空襲のせいで、新しい接点ができてしまったの?
レノ店長たちが焼け跡で見た物を説明した時、工員クルィーロも知らないと言った。
「あっ! 標識ッ! ……今、モースト市に向かってます!」
ファーキルの叫びに安堵と不安が交錯する。
魔獣が追ってきたら、市民を巻き添えにするのではないか。
……それとも、見張りの人が気付いて門を閉めちゃう?
マスリーナ市で遭遇した魔獣は、巨体故に動きが鈍く、追い付かれずに済んだ。この森の二頭はどうなのか。みんな強張った顔で身を縮める。
アウェッラーナはそっと立ち上がり、係員室に入った。小窓に齧りつく少年兵が場所を空ける。
「あの夜と同じのが居たの?」
「ああ」
あの夜がどの夜を指すか、一言で通じた。バックミラーに目を凝らすが、この角度からでは後方の様子はわからない。係員室の小窓からは、サイドミラーが見えなかった。
もどかしさと焦燥感に不安が煽られ、居ても立ってもいられないが、今は逃げ切れるように祈る他ない。
……パニセア・ユニ・フローラ様、どうか、私たちをお守り下さい。
声には出さず、湖の女神に加護を求める。
真新しいアスファルトの両脇で、初夏の緑がどんどん流れる。
モースト市へ続く新道は、地図上で、ずっと森の中を通った。
先日、インターネットの地図を見て、組合長ラトゥーニがくれた地図に道を描き足した時、ラクリマリス人の少年は、小さく溜め息を吐いた。
「地図には、昔の名残で『モースト市』って書いてますけど、全然復興できてなくて、軍の小さい駐屯地と売店とかがあるだけの村なんですよ」
瓦礫は、ヴィエートフィ大橋再建工事の際、撤去された。
かつては物流の拠点だった為、橋を再建させたが、アーテル側が一方的に国交を断絶したせいで、この街の経済を再建できなくなった。
激戦地だったここは、住人の大半が亡くなった。産業のなくなったこの地に帰還する生存者は、殆ど居ないと言う。
魔物などから街や村を守る防壁は、そこに住む力ある民と、壁に設置した【魔力の水晶】や【魔道士の涙】の魔力を消費して効力を維持する。
住民の少ない集落は危険なのだ。
みんなが戻らないなら、戻れないのは仕方がない。
速度を上げるトラックの荷台で、アウェッラーナは確認した。
「ファーキルさん、モースト市には、王国軍の部隊が駐屯してるんですよね?」
「はい。でも、小さい部隊ですよ」
助けてもらえるだろうか。
匿ってもらえるだろうか。
期待より不安の方が大きい。
森の木々が疎らになり、草原に出た。
牧場の柵も何もない。自然のままの草地にアスファルトが黒々と敷かれ、ずっと先に巨大な橋梁が見えた。
ファーキルの言った通り、橋の手前に街らしきものはない。
……明るい所に出たから、大丈夫。大丈夫よ。
自分に言い聞かせるが、足の震えが止まらない。放送機材を乗せた机にしがみつき、恐怖を堪える。
雑妖なら、日の光を浴びただけで消えてなくなる。魔物も大幅に弱体化するか、発生直後の弱いモノなら、それだけで幽界へ戻る。
充分な魔力を蓄え、この世の肉体を得た魔獣は、日の光を浴びただけでは消えない。弱体化も、ほんの気持ち程度だ。
遠目に橋頭堡と兵舎が見えてきた。トラックが速度を緩める。
アスファルトの二車線道路を挟み、商店や民家が十軒ばかり並ぶだけの小さな集落だ。外界との境界は低い土塀。各種防護の術はあるのだろうが、なんとも心許ない。
村の入口には検問所も何もなかった。ラクリマリス王国軍の部隊は、アーテル側からの侵入を警戒する為に配置されたらしい。
開け放たれた門を抜け、トラックは更に減速したが、人の気配はなかった。
☆あの真っ黒の奴/レノ店長が「焼け跡で見た」……「0089.夜に動く暗闇」参照
☆放送局の一夜……「0126.動く無明の闇」参照
☆マスリーナ市で遭遇した魔獣……「0184.地図にない街」「0185.立塞がるモノ」参照
☆橋を再建させたが、アーテル側が一方的に国交を断絶……「0103.連合軍の侵略」「0161.議員と外交官」参照




