0297.トラブル発生
急ブレーキでトラックが大きく傾いた。
何とかどこにもぶつからずに停車する。
「どうしたッ?」
ソルニャーク隊長が係員室に飛び込む。運転手のメドヴェージが、ふたつみっつ質問に答える。続いて運転席を降りる音がした。
「兄ちゃんたち、ちょっと手伝ってくれ。パンクしたんだ」
メドヴェージが荷台を開ける。
木箱などはロープで固定してあり、他も少しずれただけで済んだ。巨大な魔獣から逃れた時のような酷い状態ではない。ホッとして妹たちの肩を叩いた。
「大丈夫。魔物とかじゃない。……手伝ってくるよ」
ピナとティスが怖々目を開け、兄を見上げる。
レノは、笑顔で二人の肩を叩いて荷台を降りた。
トラックは、道路の真ん中で斜めに停まる。来た道を振り向くと、黒いスリップ痕が見えた。
メドヴェージが、トラックの周囲を回って各タイヤを点検する。助手席のファーキルも降りてきた。
真新しいアスファルトには、白いセンターラインがくっきりと引かれ、森の奥へ続く。
両脇は深い森で、木々に蔦が絡まり、見通しが利かない。茂みの下で、形を成さない汚らしい色の靄が蠢く。
雑妖だ。
道端には呪文を刻んだ石碑が等間隔で並び、根元には傷薬の薬草が青々と茂る。一番近くにあるのは、教えてもらったばかりの【魔除け】だ。その隣は、レノがまだ知らない呪文が刻まれる。
道路に影を差す枝はない。木々は道の手前で、新鮮な切り口を空に向けて立つ。
「右前の一本だけだな。まぁ、今までよく走ったもんだ」
点検を終え、メドヴェージが男衆に笑顔を向けた。
……そうだな。空襲でぐちゃぐちゃになった道でパンクしなくてよかったよな。
もし、マスリーナ市で、あの巨大な魔獣から逃げる最中だったらと想像し、レノは背筋が凍った。
メドヴェージが荷台下の留め具を外し、ソルニャーク隊長と二人で予備のタイヤを引っ張り出す。ジャッキと工具箱も降ろし、工員クルィーロと二人でせっせとタイヤ交換を始めた。
ソルニャーク隊長とファーキルは、トラックの前後に分かれ、他の車が来ないか見張る。ずっと遠くまで直線道路が続くが、一台の車影もなかった。
呼ばれて降りたものの、レノたちはすることがない。ロークも、手持無沙汰な様子で二人の作業を見守った。
少年兵モーフが、驚いた目でメドヴェージの手元を見る。
「おっさん、こんなコトまでできンのかよ」
「そりゃそうだ。できなきゃ、こうやってパンクした時、困るだろ」
「そっか……そうだな」
メドヴェージが作業しながら、楽しそうに答える。モーフは神妙な顔で頷いた。
レノは、もっと早く教習所に通っていれば手伝えたのにと、苦い後悔がじわりと腹の底に広がった。
……瓦礫を片付ける時に使ってた軽くする魔法で……いや、ダメだ。効果が一分しか持続しないんだ。
レノは呪文のメモを思い出し、試したくなったが、すぐ欠点に気付いて口に出さなかった。代わりに質問する。
「何か手伝えるコト、ありませんか?」
「ん? おぉ、すまんな、兄ちゃん。道具がねぇや」
「そうですか。じゃ、薬草採りしてます」
傷薬の薬草は、道の傍だけでもかなりあった。
「お兄ちゃん、私も……」
「すぐそこに雑妖が居る。ティスたちは危ないから、荷台で待っててくれ」
レノが茂みの下を指差すと、ティスはピナにしがみついた。アマナも顔を引き攣らせる。薬師アウェッラーナが、やさしく声を掛けて落ち着かせた。
ロークと少年兵モーフを誘い、三人で手分けして、両手いっぱいに摘み採った。
荷台から様子を覗う針子のアミエーラが、ゴミ袋の口を広げて待つ。あっと言う間に袋一枚がいっぱいになった。
空の袋を一枚受け取り、道路脇へ摘みに行く。驚いたバッタが飛び出し、道路の反対側へ跳ねて行った。その先の茂みにも雑妖が居る。
道路には居ないのが、【魔除け】の石碑の効果か、降り注ぐ日光のお蔭か、力なき民のレノには区別がつかない。
無事にタイヤ交換が終わり、薬師アウェッラーナが、薬草から抜いた水分でみんなの手を洗ってくれた。
……そっか。手が汚れるのを気にしなくてよくなったのも、魔法のお陰なんだ。
草の汁と泥に塗れた手では、調理できない。改めて感謝を伝える。
「有難うございます」
「いえいえ、どういたしまして」
穏やかな微笑で応えた湖の民は、中学生のピナと同じくらいに見えるが、長命人種の魔女だ。半世紀の内乱をどうやって生き延びたのだろう。
レノは、再び走り出したトラックの荷台で考えた。
……まだ子供だったから、家族が守ってくれた?
それもあるだろう。彼女自身も【漁る伽藍鳥】学派の術で魚を獲れる。湖の民の一家が飢えに苦しんだことはなさそうだ。
薬師で【思考する梟】学派の術が使える。
そればかりか、薬なしで傷を癒す【青き片翼】学派の術まで使える。大学で学んだのではなく、子供の頃……内戦中に知り合った薬師や呪医に教わったと聞いた。
彼女の癒しの術で、家族や近所の人たちは、怪我をしても死なずに済んだ筈だ。
……俺にも【青き片翼】の術が使えたら、父さんは助かったのに。
自分の無力に胸の奥がささくれ立つ。
考えの行き着く先は、いつも同じ、彼女が「力ある民だから」だった。




