0296.力を得る努力
レノは、薬師アウェッラーナに教えられた【魔除け】の呪文を一心に唱えた。
渡されたメモには力ある言葉が記され、その上に湖南語で読み方、下には意味が添えてある。
「日月星 蒼穹巡り、虚ろなる闇の澱みも遍く照らす。
日月星、生けるもの皆、天仰ぎ、現世の理、汝を守る」
ロークが持つ【魔除け】の護符は、布に特殊な染料でこの呪文を染めつけ、袋状に縫ったものだ。道具を作る呪文を唱えながら、一文字ずつ魔力を籠めて手書きしなければならず、量産できないらしい。
魔法の道具を作る職人【編む葦切】学派の術は、魔力はあっても作用力のない者にも使える。
魔力と作用力を補う【魔力の水晶】を片手に握って作業すれば、力なき民でも職人になれるが、費用が高くつくので滅多に居ない。
……生活、安全、就職……魔力あるのとないのじゃ、何から何までこんなに差がつくんだよな。
レノは、アウェッラーナとクルィーロをちらりと見た。
湖の民の薬師は、レノの妹ピナに【簡易結界】の呪文を教える。
ピナは麻紐で作った輪を持って、何度も同じ呪文を練習した。今は【水晶】なしなので何も起きないが、輪に魔力を注ぐコツを教えられ、呪文を唱えながら訓練を積む。
「此の輪 天なり 六連星 満星巡り
輪の内 地なり 星の垣 地に廻り
垣の内 呼ばぬ者皆 立ち去りて
千万の昆虫除けて 雑々の妖退け
内守れ 平らかなりて 閑かなれ」
末妹のティスも【灯】の呪文をたどたどしい発音で諳んじる。
「闇照らす 夜の主の眼差しの淡き輝き 今 灯す」
ティスと同い年のアマナは、兄のクルィーロに教えられ、【退魔】の長い呪文を歌のように詠じた。
「撓らう灼熱の御手以て、焼き祓え、祓い清めよ。
大逵より来たる水の御手、洗い清めよ、祓い清めよ。
日々に降り積み、心に澱む塵芥、薙ぎ祓え、祓い清めよ。
夜々に降り積み、巷に澱む塵芥、洗い清めよ祓い清めよ。
太虚を往く風よ、日輪翳らす雲を薙ぎ、月を翳らす靄を祓え」
どれも、雑妖や魔物から身を守る呪文だ。
発生直後の雑妖は、【灯】の淡い光でも恐れて近寄らない。【退魔】で場の穢れを祓えば、しばらく雑妖が発生しなくなる。
穢れを好む魔物が近寄り難くなり、既にいる雑妖も弱体化できる。
運河で経験済みの【簡易結界】は、輪の内側に雑妖や弱い魔物、それから虫も入れなくする。
輪は地面に直接書いてもいいが、踏み消す危険性がある。丈夫な紐などがあればいいが、運河では古新聞を水で濡らして繋げるしかなかった。
苦い記憶が甦り、レノの胃がキリキリ痛んだ。最後に見た父の青白い顔を頭から振り払い、呪文の練習に集中する。
……【魔力の水晶】があれば、俺でもみんなを守れるんだ。
さっき、森の手前で【魔除け】の呪符を発動させた。
呪符は、レノのたどたどしい発音に応え、籠められた魔力を巡らせて【魔除け】の力を解放した。真珠色に輝く呪符は、荷台の扉にテープで貼り付けてある。
呪符に呼応して、元々荷台に巡らされた【結界】と【魔除け】が強くなった、とアウェッラーナとクルィーロが口を揃える。
力ある民なら、そんなことまでわかるのだ。
そう言えば、二人は放送局の廃墟でも、建物に掛けられた守りの術を点検した。
……生まれつきの能力に、こんなに差があるんじゃなぁ。
レノは内心、溜め息を吐いて、キルクルス教徒たちをこっそり見た。売れた分の蔓草細工をせっせと作り足す。
ソルニャーク隊長の帽子と、少年兵モーフの籠は全部、金属製の深鍋ひとつと交換してもらえた。
これでスープを作りやすくなり、おかずを一品増やせる。
武器職人の親方は帽子ひとつで【魔力の水晶】をくれたので、買い叩かれた気がするが、多分、雑貨屋の評価が正しいのだろう。
「ここらじゃ、術の掛かってない物なんか売れんぞ」
雑貨屋は、帽子と籠を素材として買ってくれた。あの声が、憐みの色を帯びて胸に響く。
……俺たち、そんな「可哀想」な存在なのかよ……クソッ!
二月のあの日までは、普通に暮らせた。ほんの四カ月前だ。
それが、今は人々のお情けに縋らなければ生きてゆけない。
……俺たちが力ある民なら、こんな……
妹たちにも惨めな思いをさせずに済んだ。
戦う力があれば、護る力があれば、両親と店を喪わずに済んだ。
身体の芯が熱くなり、呪文を練習する声が震える。
ひとつ咳払いして誤魔化し、湖の民が書いてくれた呪文のメモを見詰めた。
……【魔力の水晶】はたくさんあるんだ。今はとにかく、早く【魔除け】をしっかり唱えられるようになって、次の呪文を教えてもらおう。
レノは何となく、三界の魔物の封印後、キルクルス教が成立した理由がわかった気がした。
三界の魔物のせいで魔力が枯渇し、アルトン・ガザ大陸の北部では、力ある民が滅多に生まれない。あちらの大陸全土で、純粋な魔法文明国は、ディアファナンテ一国しか残らなかった。
魔術を「悪しき業」として否定する気持ちは、今ならよくわかる。
……だからって、魔法使いを迫害するのはやり過ぎだけどな。
今からキルクルス教に改宗して、ランテルナ島に渡りたいか、と問われれば、その答えは否だ。気持ちはわかるが、実際問題、この地方では、魔法の力がなければ生きてゆけない。
実体を持たない雑妖や魔物も人に害を成す。この世ならざるモノに対する防御や駆除は、魔法でなければ不可能だ。キルクルス教を国教とするアーテル共和国とラニスタ共和国の生活は、想像もつかない。
……あの辺、魔物が少ないのかな?
不意に車体が激しく揺れた。
女の子たちが悲鳴を上げる。レノは左隣のティスを抱きしめ、ピナが右腕にしがみついた。




