0003.夕焼けの湖畔◇
冬の日は早い。
東の空はもう紺色を深め、街にはポツリポツリと灯が点る。
アウェッラーナは窓を離れ、父の顔を見た。
この半年で、日焼けが随分、薄くなっている。父は湖に出たくて窓の外を見ているのだろうか。
姉は近所の人の話などを喋っているが、父は相変わらず無反応だ。
耳が聞こえない訳ではない。日によっては「お父さん」と呼べば、顔を向けることもある。
アウェッラーナも、思い切って声を掛けてみた。
「お父さん」
今日は、石の日だった。
アウェッラーナは仕事が休みの日、兄は雨で漁に出られない日に見舞いに来る。姉だけが毎日、病室に通っていた。
父は去年、漁の最中に船から落ち、肺炎になった。
肺に水が入ったのが原因だ。
以前の父なら、湖に落ちても溺れることはなかった。【操水】の術ですぐに湖面に立ち、肺に入った水も、自力で排出できた。いや、そもそも、船から落ちることなどなかった。
かつての父からは、全く想像もつかない衰えぶりに、家族は悲しんだ。
肺炎は半月程で治ったが、それ以来、目に見えて衰えてしまった。
伏せったままの日が続いて体力が回復せず、食も細り、そうかと思えば、食べたことを忘れて食事を催促する。
それまでは、周囲が止めるのも聞かず、「体が動く間は漁に出る」と湖に出ていた。その父が、船にも漁にも関心を示さなくなった。
まだ、どこか具合が悪いのかと心配して、病院に連れて行った結果、認知症と診断された。他に腎機能の低下もあり、再び入院することになった。
このゼルノー市立中央市民病院に限らず、ネモラリス共和国内の病院は内戦後、近代医学を修めた医師を中心とする科学の病院になっていた。魔法ではなく、医師の観察と器具や機器で検査し、手術や投薬、リハビリなどで治療を行う。
魔法による治療は、「元に戻す」ものだ。
即死でない限り、瀕死の重傷であっても、元通りに復元できる。その代わり、先天的な障碍や老化に伴う心身の変化は、治療の対象外だ。
科学による治療は、原因を問わず可能な限り、対象としている。
まだまだ研究途上で、症状の緩和や、進行を抑える程度のことしかできない症例も多い。後遺症が残ることもある。
医療系の魔法は、専門分野毎に細分化され、修得が難しい。しかも、個々の術が術者に求める身体的条件が厳しい為、術者の数は他の学派に比べ、極端に少ない。
その上、多くの呪医が、先の内戦で命を落としていた。
運がいいことに、ゼルノー市立中央市民病院には、昔ながらの呪医が一人だけ常勤している。【青き片翼】学派の術を修め、主に外科領域の治療を担当していた。
アウェッラーナの父は、呪医から床ずれの治療を受けた。
爛れて膿んだ褥創が、何事もなかったかのように消え、元の皺だらけで筋張った背中に戻った。それ以降は主に姉が介護し、床ずれを予防している。
父の命は、癒しようのない老いに時々刻々と削り取られていた。
生きてはいても、言葉を交わすこともできない。もしかすると、病気のせいでアウェッラーナのことを忘れてしまったのかもしれない。
……せっかく、戦争でも生き残ったのに。何もないのに死んじゃうなんて……でも、痛くないだけ、マシなのかな?
アウェッラーナは内戦中、家族や親戚、友達、近所の人たちが、空襲の炎に巻かれた様子を昨日のことのように憶えている。
何もかもが焼き尽くされ、写真一枚残っていない。
そんなことは憶えているのに、あの懐かしい人たちの顔は、思い出せない。
魔力を持たない力なき民は、骨も残さず焼き尽くされた。
魔力を持つ者は、陸の民も湖の民も、骨の代わりに結晶化した魔力が残る。
その結晶……【魔道士の涙】は、各陣営が資源として奪いあった。
身内は弔いの為に。
政府軍、共和義勇軍、アーテル軍、キルクルス教徒の武装集団、魔法使いの武装ゲリラ、住民の自警団は、魔力の補充の為に資源として【魔道士の涙】を欲した。
魔力を持つ者の遺体を灰にすると、残留魔力が凝集し、結晶化する。その結晶は【魔道士の涙】と呼ばれる。
大きさは享年により、長生きした分だけ大きくなる。
水晶に似た結晶で、中に魔力を蓄える性質があり、手に握ることで自分の魔力に【涙】の魔力を上乗せして、術の威力や範囲を拡大できる。
また、【涙】自体に術を掛けて使うこともできる。
例えば、氷の術なら、冷気の発生源として冷蔵庫の代わりに、炎の術なら、暖炉の代わりになる。中の魔力が尽きるか、術を解除するまで、効力は持続する。或いは、魔法の道具を稼働させる動力源として、充電池のような使い方も可能だ。
力なき民であっても、【魔道士の涙】と道具があれば、魔法を使える。
湖の民は全員が魔力を持ち、王家をはじめとする一部の陸の民も、魔力を持っている。
アウェッラーナは、アーテル地方の「力なき民」は、長年、魔法使いの「下」に置かれていたと聞いたことがある。
力なき聖者キルクルス・ラクテウスの教え、キルクルス教への信仰を支えに、魔法使いの専横と侮蔑と苦難に耐え忍んできた……と言うのが、力なき民のキルクルス教徒の言い分だ。
アウェッラーナは、内戦時代の半ばに生まれた。
物心つく頃には、キルクルス教徒のアーテル軍が戦闘機から大量の焼夷弾を投下し、街を焼き払う姿を見ていた。
軍服にキルクルス教の「星の道」を付けた兵士や、キルクルス教徒の武装集団が、街の焼け跡を血眼で漁っていた。
大人になってから気付いたが、力なき民は、魔力を持たぬが故に、他の陣営以上に【魔道士の涙】を欲していた。魔法使いに対抗する力を渇望していたのだろう。
キルクルス教徒の兵士は、湖の民を「資源」として狩ることに、心理的な抵抗がないように見えた。
湖の民の街だから焼かれ、魔法使いだから灰にされた。
湖の民も力ある民も、魔法使いとは言え、全員が戦える訳ではない。
魔術は、専門分野毎に学派が分かれている。
日々の暮らしに必要な【霊性の鳩】学派の術は、常識として誰もが修めているが、短い呪文で効率よく敵を屠る【急降下する鷲】を修めた戦士は少ない。
普通の国民は【霊性の鳩】の他は、自分の仕事に必要な、農耕の【畑打つ雲雀】や漁獲の【漁る伽藍鳥】、職人の【編む葦切】などの術しか使えない。
アウェッラーナの家は代々、ネーニア島で漁業を営んでいる。【漁る伽藍鳥】の術は修めているが、戦いに使えるような術は、身内の誰も知らなかった。
空襲警報が鳴れば、近くの防空壕に命からがら逃げ込むことしかできなかった。
敵機が去った後も、すぐには消火活動に行けない。防空壕から出た所を地上部隊に銃撃され、炎に焼べられてしまう。
負傷者は、味方からも姿を隠さなければならなかった。
医療体制が崩壊した中、骨折や銃創、大きな火傷などを負えば、「回復不能」と看做される。アウェッラーナは、多くの負傷者が同朋に安楽死させられ、「資源」として回収されるのを見て来た。
幼い頃、いとこは十七人いたが、内戦終結時には五人に減っていた。
病院を焼け出された【飛翔する梟】【青き片翼】【白き片翼】などの呪医たちは、子供たちに医療系の魔術を教えて回った。
少しでも、多くの命を救えるように。
魔法は、戦う力ではなく、救う力であることを教える為に。
アウェッラーナも、【思考する梟】の術者に薬を作る術、【飛翔する梟】と【青き片翼】の術者に怪我を治す術を教えてもらった。
今は民間病院の薬局で、調剤の仕事をしている。
夕焼けを見る度に、内戦の炎を思い出し、アウェッラーナの気持ちは夕日と共に沈んだ。
★序章 あらすじ
多くの不満や不安を抱えながらも、半世紀に亘る内乱に終止符が打たれた。
和平合意の決定が覆されることはなく、平穏な日々が三十年、それと同時に、小さな不満も三十年、積み重ねられた。
アウェッラーナは入院中の老父を見舞う。
姉は毎日、見舞いに来るが、アウェッラーナと兄たちには仕事があるのでそうもゆかない。
父の命は、癒しようのない老いに時々刻々と削り取られていた。生きてはいるが、言葉を交わすこともできない。もしかすると、病気のせいでアウェッラーナを忘れてしまったのかもしれない。
★登場人物紹介
☆◆湖の民の薬師 アウェッラーナ 呼称は「榛」の意。
湖の民。フラクシヌス教徒。髪と瞳は緑色。ネモラリス人。
隔世遺伝で一族では唯一の長命人種。外見は十五~十六歳の少女(半世紀の内乱中に生まれ、実年齢は五十八歳)
ゼルノー市ミエーチ区のアガート病院に勤務する薬師。
使える術の系統は、【思考する梟】【青き片翼】【漁る伽藍鳥】【霊性の鳩】学派。
実家はネーニア島中部の国境付近の街ゼルノー市ジェリェーゾ区で漁業を営み、内乱を生き残った身内と支え合って暮らす。
◆アウェッラーナたちの父
湖の民。フラクシヌス教徒。髪と瞳は緑色。常命人種。八十代。ネモラリス人。
半世紀の内乱中は、軍を相手にかなり無茶をしていたらしい(親戚談)
【漁る伽藍鳥】学派の術を修めた漁師。
星の道義勇軍のテロの際は、ゼルノー市立中央市民病院に入院していた。
◆イレックス 呼称は「柊」の意。
湖の民。フラクシヌス教徒。髪と瞳は緑色。常命人種。六十代後半。ネモラリス人。アウェッラーナとアビエースの姉。
漁師一家を切り盛りする主婦。【漁る伽藍鳥】学派。
星の道義勇軍のテロの際は、父の看病で市民病院に居た筈だが、行方不明。
◆アビエース 呼称は「樅/船/槍」の意。
湖の民。フラクシヌス教徒。髪と瞳は緑色。常命人種。ネモラリス人。
アウェッラーナの兄。イレックスの弟。【漁る伽藍鳥】学派を修めた漁師。ゼルノー漁協所属の漁船「光福三号」の船長。
開戦前まで、ネーニア島のゼルノー市ジェリェーゾ区で漁業を営んでいた。星の道義勇軍のテロ直後から、妻子と甥たちと共に行方不明。