0280.目印となる歌
移動販売店見落とされた者の一行は午後のお茶の後、商業組合長ラトゥーニの厚意で、再びサンルームを使わせてもらえた。
昨日、全ての薬を作り終え、今日は休みだ。薬師アウェッラーナは、思ったより早く重責から解放され、半ば呆けてしまった。
薬師候補生たちはこの先、教科書とアウェッラーナの教えを基に独学する。ドーシチ市民の医療は、彼ら七人の肩に懸かるが、アウェッラーナが見た限り、人柄も能力も申し分なかった。彼らなら、立派に役目を果たし、市民の生命を支えられるだろう。
サンルームには、組合長ラトゥーニと料理長ら数名の使用人も集まった。屋敷の人々のキラキラした目に対して、プラエテルミッサの一行は、ぎこちない愛想笑いを返す。
工員クルィーロが再生機の傍らに立ち、レコードの用意をする。
ファーキルも前回同様、太陽光パネルの並ぶ窓辺でタブレット端末を構えた。
「じゃ、みんな、始めるよー。最初は天気予報の歌から」
これはもう歌詞を見なくても歌える。
クルィーロがレコードに針を落とすと、すっと背筋が伸びた。
耳に馴染んだ音の流れに身を委ね、肩の力を抜く。大きく息を吸い、主旋律に声を重ねた。
成人男性の声が底を支え、青少年の声が伸びやかに先導し、女声が華やかな輝きを与え、少女の声が活き活きと跳ねる。
プラエテルミッサの一行は同じ旋律を辿って斉唱するが、ひとつに溶けあった声は、幾つもの層を成して響き合った。元の歌は呪歌だが、湖南語で綴られたこの歌詞には勿論、魔術としての効果はない。
天気予報の「この大空をみつめて」の次は、更にその替え歌だ。
パン屋のCMソングとして作り、これからも行く先々で歌う。自分たちが単に不法入国をお目こぼしされ、施しに縋るだけの難民ではないことを示す為、真っ当に働く移動販売店として商売をしやすくする為に。
料理長が歌詞の意味を噛みしめ、何度も頷きながら聞く。
他の使用人たちも驚きと微笑に目を輝かせ、聞き入った。
歌が終わり、余韻が消える。
ファーキルがタブレット端末を撫で、録音を止めた。クルィーロが再生機を操作すると、レコードから針が上がり、定位置に戻る。
「二番目のは、なんて歌だい?」
料理長に聞かれ、レノ店長が答える。
「行商用の替え歌ですよ」
「題名はないのかい?」
「……そう言われてみれば、付けてませんでした」
レノ店長が少し考えて答える。アウェッラーナは歌詞のメモを見たが、題名はなかった。みんな顔を見合わせ、今更気付いたことに苦笑する。
「あった方がいいだろ。『パンを届けよう』なんてどうだい?」
料理長が考えてくれた題名を舌の上で転がし、手元の歌詞を見る。パン屋の末っ子エランティスが、にっこり笑った。
「『パンを届けよう』……ぴったりね」
「有難うございます」
レノ店長とピナティフィダが同時にお礼を言うと、エランティスも慌ててぺこりと頭を下げた。他のみんなも口々に礼を言う。
使用人たちが拍手すると、料理長は照れて頬を掻いた。
「さて、そろそろ次を頼むよ」
組合長ラトゥーニが拍手を止めて言った。
今日、アウセラートルは検品に掛かりきりで、この場には居ない。
クルィーロがレコードを裏返して準備する。
「次は、歌詞が途中までしかないんですけど、一応……」
「途中? 何故だね?」
「アミエーラさんのお祖母さんの遺品から、古い手帳が見つかって、そこに少しだけ歌詞が書いてあったんです」
組合長ラトゥーニは、クルィーロの説明で針子のアミエーラを見た。
「子供のころ、祖母と二人で缶に色々な物を詰めて埋めたんです。空襲が一段落した後、掘り起こして持って来た中に入ってました」
「詳しいことは、もうわからんのだね?」
「はい、すみません」
「何、構わんよ」
恐縮するアミエーラに鷹揚な笑顔を見せ、ラトゥーニはクルィーロを促した。合図でファーキルがタブレット端末を操作し、みんなの背筋が伸びる。
クルィーロが再生機を操作すると、針がレコードの盤面にゆっくりと降りた。前奏なしでいきなり歌い出しに入る。
「穏やかな湖の風……」
誰も遅れず、揃って声を出せた。
ホッとして、続く言葉を伸びやかに歌い上げる。
「……一条の光 闇を拓き 島は新しい夜明けを迎える
涙の湖に浮かぶ小さな島 花が朝日に揺れる」
そこで歌詞が終わり、レコードから旋律だけが流れる。拍子抜けした聴衆は少し残念そうだが、口を挟まず、曲の終わりを待った。
ファーキルが録音を停止する。
ラトゥーニが拍手しながら、プラエテルミッサの一行を労った。
「まぁ、ないものは仕方がないからね。一部分だけでも素晴らしかったよ」
「有難うございます。次は、新しく歌詞を作ったばかりなので、まだ充分練習できてないんですけど……」
クルィーロがレコードを交換して言う。
みんなは紙束から、昨日覚えたばかりの歌詞を出した。「国民健康体操」の主旋律に戦闘の終了と共存を呼び掛ける詩を付けたものだ。小学生二人とファーキルが作ったので、平易な言葉で綴られる。
半世紀の内乱時代に生まれたアウェッラーナとソルニャーク隊長、運転手のメドヴェージは曲をよく知り、作詞した三人も、すっかり覚えただろう。
残る六人の若者たちは、何度も歌って練習したが、まだ自信がなさそうだ。
ホイッスルに続いて、前奏が流れる。
アウェッラーナは歌詞に視線を走らせながら、なるべく大きな声で歌った。予想通り、「国民健康体操」をよく知らない六人の声が小さい。ソルニャーク隊長たちも、心得たもので、補うように声を張り上げる。
軽快な曲にわかりやすい歌詞が乗り、屋敷の者たちから笑顔が咲きこぼれた。
録音を終え、ファーキルが頷いた瞬間、割れんばかりの喝采が起こる。
「……この歌の通りに暮らせる日が来るよう、我々も祈ろう」
屋敷の主人ラトゥーニの言葉で、使用人たちが真顔に戻って深く頷いた。
女中頭がどこか遠くを見る目で言う。
「これなら、曲を知ってる人が大勢いるから、私たちも広められますよ」
「有難うございます。後で歌詞をお渡しします」
レノ店長が深く頭を垂れる。薬師アウェッラーナたちも倣った。
この街を訪れる業者や観光客経由で周辺諸国に広まれば、その内、アーテル人の耳に入る日が来るかもしれない。
湖の民アウェッラーナは、一人でも多くの民が、この歌に共感してくれることを願った。
今、この願いは夢物語でしかない。
……湖南語の歌は、呪歌みたいな効果はないけど、呪歌じゃないから、アーテルの人たちにも聞いてもらえるかもしれないんだし。
僅かな可能性に望みを懸けるしかないこの身の無力がもどかしかった。
魔力を持つ者は「力ある民」と称されるが、一人一人の力は小さい。
戦に抗い、平和を希求する心が合わされば、大きな力になる可能性がある。
多数派が主導する民主主義のシステムの中でも、この小さな声が掻き消されないよう、戦いをやめたいとの願いをひとつに束ねる目印として、歌を広めようと心に決めた。
……ヴィエートフィ大橋で別れることになっても……もし、私一人になっても、諦めない。
グロム市や王都ラクリマリスまで行けば、より多くの巡礼者や観光客が居る。
人道支援でネモラリスに行くフラクシヌス教団や信者団体、人権団体の関係者も居るだろう。それだけではない。難民となったネモラリス人も、一時的に保護されて留まるだろう。
民主主義で多数決を採るなら、多くの人の心に厭戦感を掻き立てたかった。
「他のみんなにも、聞かせてやりたかったなぁ」
庭師がしみじみと言った。
ファーキルが端末から顔を上げて聞く。
「ここの皆さんは、端末やパソコンはお持ちじゃないんですか?」
「特に用がないからな」
主人のラトゥーニが即答し、使用人たちも頷く。
ここラクリマリス王国は、魔法と科学を折衷する両輪の国だが、魔法文明を重視する。国民の大半が魔法使いなので、そうなるのも仕方がなかった。
「今、録音したもの……インターネットで公開しようと思うんですけど、いいですか?」
ファーキルがプラエテルミッサのみんなを見回して聞く。
アウェッラーナには何を意味するかわからず、是とも非とも言えなかった。他のみんなも、怪訝な顔でグロム市民の少年を見詰める。
ファーキルは少し考えて、詳しく説明してくれた。
「インターネットには、この間見たニュースだけじゃなくて、音楽や映像を公開できる『場』があるんです。そこに置いておけば、世界中どこに居ても聴けます」
「どこからでも?」
驚いて声が裏返ったレノ店長にファーキルが頷く。
「はい。インターネットの接続環境があれば、極東の日之本帝国や、アルトン・ガザ大陸のバルバツム連邦でも、どんな遠くからでもです」
やや間があって、工員クルィーロが同意した。兄が頷くのを見て、アマナもおずおず首を縦に振る。友達がいいと言うので、エランティスも「いいよ」と応じ、その兄姉もよくわからないまま、妹に続いた。
そうして、全員が同意するのを見届けて、ファーキルは宣言した。
「じゃあ、音声に歌詞を付けて公開します。移動販売店の名前『プラエテルミッサ』で検索すれば出るようにします。機会がありましたら、探して下さい」
「そうか。では、早急にアミトスチグマから端末を取り寄せよう」
ラトゥーニが言うと、使用人たちにも笑顔が広がった。




