0277.深夜の脱出行
ラクエウス議員は動きやすい服装に着替え、息を殺して時計を見詰める。
鞄をたすき掛けにし、竪琴を手にして事が起きるのを待った。
鞄の中身は、保存食と新聞をまとめたノート。
竪琴は、彼が「ハルパトール」と呼ばれ、十代半ばから勤めたラキュス・ラクリマリス交響楽団時代からの愛用品だ。
耳には濡らしたティッシュを固く絞って詰めてある。
常命人種の平均を大きく超え、九十年以上生きたが、まだ為さねばならぬことがある以上、ここで寿命が尽きるのを座して待つワケにはゆかない。
常命人種でも、力ある民ならば、百五十年近く生きる者も居るが、ラクエウス議員も姉のクフシーンカも、いつ召されてもおかしくない程の高齢だ。
もう、存命中に姉と再会できる日は来ないだろう。
ここを無事に出られても、ラクエウス議員には、リストヴァー自治区に帰る時間的余裕も手段もなかった。
時計の針が十時を指した。
いつもならとっくに眠る時間だが、動悸が激しくなる。
微かに女性の歌声が聞こえた。ティッシュをもう一枚取り、半分に裂いて丸めて耳に詰めた。
議員宿舎の正面玄関と裏の通用口。二カ所同時に【歌う鷦鷯】学派の術者が、魔力を蓄積させたサファイアを握り、眠りをもたらす呪歌を謳うのだ。
行方不明になった魔哮砲の捜索で、見張りの魔装兵の大部分が一般兵に替わり、見張り全体の数も減った。
恐らく、彼らではサファイアで強化した呪歌に抗しきれまい。
十時五分。
ラクエウス議員はそっと立ち上がり、ドアスコープを覗いた。帽子を被った後頭部が見える。護衛を兼ねる見張り兵は、まだ眠らずに立つ。
十時十二分。
兵が動いた。廊下の手すりに駆け寄り、中庭を見下ろす。
何事かと各階の扉が次々と開く。銃声が響いた途端、固く閉ざされた。
室外に居るのは、今夜の作戦を知る者と、混乱に乗じて逃れようと行動を起こす者、議員の逃走を阻止せんとする兵たちだ。
ラクエウスの耳にも、呪歌の高音部が途切れ途切れに届いた。指で耳を強く押さえ、懸命に聞くまいとする。
今頃は、二カ所の出入口に掛けられた【一方通行】の術を【舞い降りる白鳥】学派の術者が、強制的に解除した筈だ。
寄り掛かった扉をコツコツ打つ者がある。
そっとドアスコープを覗く。クラピーフニク議員の緊張した顔があった。急いで鍵を開ける。
彼も小さな鞄だけを肩に掛け、耳栓を外すよう手振りで示す。ラクエウス議員が応じると、若手議員は早口に囁いた。
「兵は、まだ何人か起きてます。歌い手は逃げました」
ラクエウス議員が細く開けたドアから抜けると、若手議員は空いた手を繋いだ。
「水を盾にしますが、我慢して下さい」
頷くと、クラピーフニク議員の後ろに控える水の塊が広がった。身を低くし、廊下の端を行く。
散発的に銃声が轟き、廊下の常夜灯が一斉に消えた。
二人は息を殺し、廊下の壁を伝って這うように進む。
「階段です」
「うむ」
待ち伏せがあるかもしれない。銃声に身が竦む。老いた足を叱咤し、若手議員の足手纏いになるまいと懸命について行く。
「うわッ!」
クラピーフニク議員が体勢を崩し、手を放した。階段室は全くの闇で様子がわからない。
「どこだ? 大丈夫か?」
「はい。人を踏みました。こっちへ」
どうやら咄嗟に手すりに掴まって転落は免れたらしい。ラクエウス議員の膝を軽く叩き、手を繋ぎ直して誘導する。
踊り場の角を曲がると、階段から、淡い光に照らされた中庭が見えた。
何人も倒れたようだが光量が足りず、服装まではわからない。だが、動くものを発見するには事足りる。
銃を構えた人影の背後から、誰かが操る水が忍び寄り、あっと言う間に頭部を包んだ。逃れようともがき、照準も合わせず、振り向きざまに乱射する。闇雲に撃った背後には誰もおらず、その兵はすぐに倒れて動かなくなった。
銀の糸が、庭をぼんやり照らす光に尾を引いて落ちる。
低く刈り込まれた植込みの灌木を雨が打つ。夕方までは快晴だった。これも、誰かが術で呼んだのだろう。
正面玄関付近は術の応酬があるのか、目を射る激しい輝きが起こっては消える。
ラクエウス議員は、クラピーフニク議員に導かれるまま、血臭漂う廊下を抜け、裏の通用口へ向かった。
静かだ。
戦闘が既に終了したのか。
若手議員が左右を見回し、誰も居ないことを確認して頷いた。倒れた者たちに構わず、開け放たれた扉の向こうへ出る。
雨に打たれ、裏庭を小走りに抜けた。
倒れた者の輪郭が、街灯で朧に滲む。生きて動く者はなかった。
早くしなければ、周囲を警備する警察官の増援が来る。気は逸るが、老議員の足は思うに任せなかった。
通用門を抜けた直後、クラピーフニク議員が早口に呪文を唱え、老議員の手首を掴む。一瞬の浮遊感の後、ラクエウス議員は知らない場所に居た。
満天に星々が輝き、街灯のない住宅街を淡く照らす。
見回すと、背後に小さな児童公園があった。滑り台が星明かりでぼんやり浮かび上がる。
「ここは……?」
「実家の近所の公園です。思わず来ちゃいましたけど、すぐ手が回るでしょう」
クラピーフニク議員は、再び同じ呪文を唱えた。
「歌の調査をお願いした人の家の近くです」
先程の街とは違い、民家が申し訳なさそうにビルに挟まる。街灯に照らされた街は静かだ。
クラピーフニク議員が別の呪文を唱えた。ずぶ濡れの服から水が抜け、あっという間に乾く。
「さあ、行きましょう」
「だが、集合場所は港ではなかったのかね?」
「情報が漏れていたら、一網打尽ですよ」
そう言われてみれば、確かにその通りだ。一人も残らないよりは、一人でも残って真実を伝えた方がいい。
ラクエウス議員は、与党から離反した若手議員に従った。
☆十代半ばから勤めたラキュス・ラクリマリス交響楽団時代……「0214.老いた姉と弟」参照
☆【歌う鷦鷯】学派の術者が(中略)眠りをもたらす呪歌を謳う/今夜の作戦……「0273.調理に紛れて」参照
☆行方不明になった魔哮砲の捜索……「0274.失われた兵器」参照




