0272.宿舎での活動
流石に察したのか、噂が広まったのか、議員宿舎を訪れる者は、以前と比べて大幅に減った。
クラピーフニク議員は、密かに入手した【花の耳】で外部から情報を得る。ラクエウス議員は雨の夜、この若手議員とメモを交わし、細々と情報収集できた。
他はそうではない。
魔哮砲の使用に賛成しなかった議員らは、焦燥と閉塞感に苛立った。翻意してここを出た者もある。
ネモラリス島の五月は穏やかで、汗を流すには丁度いい。
軟禁生活を送る議員の中から「運動不足はよくない」との声が上がり、中庭で体操する者が増えた。一人が始めると、三人、五人、十人と次々加わり、今では三十人から四十人が毎朝、身体を動かした。
ラクエウス議員は、もう歳が歳で体がきかず、朝の体操には参加しないが、午後の小演奏会で「国民健康体操」をリクエストされた。
楽譜がなく、記憶も定かでないが、サビの主旋律を何とか思い出して音を辿る。たどたどしい繋がりを少し聞くと、毎朝ラジオから流れた男性の掛け声が、鮮明に甦った。そこから音がするする繋がり、改めて主旋律を奏でた。
「国民健康体操、用意!」
年配の議員がラジオを真似て号令を掛けると、聴衆が一斉に立ち上がった。
竪琴と掛け声に合わせ、体操が始まる。今日は最初からそのつもりだったのか、中庭の議員たちは軽装だ。若い議員も、年配の議員から教えられたらしい。迷いなくキビキビ身体を動かす。
……成程。国民健康体操も、そうだったな。
ラキュス・ラクリマリス共和国時代には、全国の学校園で教えられた。毎朝六時にラジオで放送し、国民は職場や地域で体操をした。
半世紀の内乱中も変わらなかったが、終戦して国が分かれてからは、三カ国とも実施しなくなった。
三十代後半以上なら、知らない者はない筈だ。
年長者が若者や子供たちに教えれば、議員宿舎のようにすぐ広まるだろう。その時、平和だったラキュス・ラクリマリス共和国時代の思い出を語れば、その記憶も受継がれるかもしれない。
……まぁ、そう都合よくは行くまいが。
ラクエウスが広めようとあれこれ手を尽くす未完の曲より、完成され、人々の記憶に根を張った「国民健康体操」の方が広まりやすそうだ。
ラクエウスはそれから毎日、自室で「国民健康体操」の曲を練習した。朝の体操にも顔を出す。伴奏が加わると、参加者がさらに増え、ほんの数日で中庭がいっぱいになった。
ラクエウス議員は一人一人の眼を見て竪琴を奏でる。
懐かしさに潤む目、強い意志を秘めた目、単純に運動を楽しむ目……遠くの者は見えないが、近くの者だけでも様々だ。
幾人かの目は、まだ死んでいない。
意志の漲る眼差しには、運動不足解消以外の目的があるように思えた。だが、魔装兵の監視下で聞く訳にはゆかない。
強い決意を瞳に湛える議員の顔を心に刻む。
それから数日、ラクエウス議員は体操の伴奏で立つ位置を変え、人々の様子を具に観察した。
何かを成しそうな議員を見出しても、声は掛けない。
これまで通り、隣室のクラピーフニク議員以外とは、距離を置いて過ごした。彼らが事を起こす時、何か手伝いをする心づもりだけして、見守る。
……きっと彼同様、何らかの抜け穴をみつけて、外部と遣り取りするのだろう。
何の力も情報もない自分が接触しても、相手にしてもらえるとは思えない。それどころか、兵に怪しまれては、彼らの行為が露見し、何らかの計画が進行中でも、台無しになってしまう惧れがある。
迂闊なことはできなかった。
無為に過ぎ去る日々に意味を与えようと、議員たちは近頃、様々な活動をする。
毎朝の体操とラクエウス議員の小演奏会の他、レコード観賞会や喉自慢、料理教室、裁縫教室、紙コップと珈琲の出涸らしで作った即席の鉢に種を播き、野菜や果物の苗を育てる者、果てはガムを膨らませ、その大きさを競う一団まで現れた。
詩作などの文芸や、武道などの鍛錬は、兵に警戒される。誰もその方面では活動しなかった。
クラピーフニク議員は【花の耳】で情報だけは得るようだが、晴れの日が続き、彼の意見や指示は外部に伝えられない。兵の監視下では、隣室のラクエウス議員にさえ、伝えられないのだ。
ラクエウス議員は、竪琴に触らない時間は、古新聞を読み返して過ごした。
あれから、リストヴァー自治区がどうなったかわからない。経済界が動きを見せたので、悪化はしない筈だが、姉が心配なことには変わりなかった。
空襲の有無さえ、教えてもらえない。
情報の遮断がこれ程、堪えるとは思わなかった。
じわじわ心をすり減らしながら、五月が終わりを迎える。
月末の朝、兵たちの動きが慌ただしくなった。
すっかり打ち解けた魔装兵に聞いてみたが、彼は表情を強張らせて無言で去り、他の者も同様。監視の兵が減り、議員宿舎は一気に閑散とした。
出入り口には【渡る白鳥】学派の【一方通行】の術が掛かる。見張りが減ったところで、扉に権限を持つ術者に外から呼ばれない限り、出られない。
或いは、魔力の強い【舞い降りる白鳥】学派の術者が【消魔】で扉の術を解除すれば出られるだろうが、扉を封じたのは生半可な術者ではない筈だ。
魔力を籠めた宝石か、強力な【魔道士の涙】があれば別だろうが、軍に供出を強いられ、どちらも入手困難だろう。
「ラクエウス先生、お久し振りです。おひとつ、いかがですか?」
「えっ、あ、あぁ……ありがとう」
板ガムを一枚差し出したのは、野党の党首だ。ラクエウス議員は記憶を手繰り、呼称を引っ張り出す。
アサコール氏だ。彼はあちこちの活動に顔を出す。体操、演奏会、喉自慢、紙飛行機、料理教室……ガムの会までもだ。
ラクエウスも、音楽系の集まりには顔を出すが、こうして言葉を交わすのは久し振りだ。
受け取ったものの、今はガムどころではない。
減ったとは言え、まだ見張りが居る中、あまり込み入った話もできず、後の言葉が続かなかった。
「先生は、お料理なさらないんですか?」
「ん? 自炊はしとるよ。あれから家政婦が来られなくなったからな」
突然、何を言い出すのかと面食らったが、正直に答える。
野党のアサコール党首は、中庭を挟んだ向かいの部屋を指差した。
「慣れない作業で大変でしょう? 今日の料理教室は十一時から、私の部屋でするんですよ。ご一緒にいかがです?」
「む? あ……あぁ、いいのかね?」
急な誘いに戸惑うと、党首は愛想のいい笑顔を向けた。
「料理教室と言っても、そんな難しいのは作りません。昼食のシチューと、お茶請けのクッキーを作ります」
「何か持って行った方がいいかね?」
「今日は初めてですから、結構ですよ。見学で。お隣の彼も、よかったら誘ってあげて下さい。では」
アサコール党首はそれだけ言うと、二階の廊下を半周して自室に戻った。
クラピーフニク議員は来客中で今は一階の応接室に居る。
……どう言う風の吹き回しだ?
ラクエウス議員は、首を捻りながら自室に入った。
ガムを菓子箱に入れようとして、手が止まる。
個別包装の紙がややゆるい。包みを開くと、板ガムには、何か尖った物で文字が刻んであった。
まこうほう ゆくえふめい
ラクエウス議員は思わず左右を見回し、ガムを口に放り込んだ。化学的に合成されたイチゴの風味が口いっぱいに広がる。
……ガムの会……そうだったのか!
記された内容にも驚いたが、その手法にも頭を殴られたような衝撃を受けた。
差入れの類は、兵が開封して何個か「毒見」した後、警戒が外れる。ガム本体に書いて噛んでしまえば、証拠はなくなる。
ガムを噛みながら記憶を手繰った。アサコール党首は確か、フラクシヌス教の少数派、岩山の守護神スツラーシの信者だ。
彼が率いる「両輪の軸党」は中道で、小規模政党の中では最大勢力だった。
支持母体は二大政党とは異なり、宗教団体ではなく、建設業界の労働組合。支持者は業者の他、政治と宗教は分かつべきとの信条を持つ者も多い。
ガムの味がわからなくなる頃には、動悸が治まった。
☆密かに入手した【花の耳】……「0260.雨の日の手紙」参照
☆魔哮砲の使用に賛成しなかった議員ら……「0241.未明の議場で」「0247.紛糾する議論」「0248.継続か廃止か」参照
☆午後の小演奏会……「0253.中庭の独奏会」参照
☆「国民健康体操」……「0243.国民健康体操」参照
☆ラクエウスが広めようとあれこれ手を尽くす未完の曲……「0253.中庭の独奏会」「0268.歌を探す鷦鷯」参照
☆古新聞を読み返し……「0259.古新聞の情報」参照
☆あれから、リストヴァー自治区……「0212.自治区の様子」~「0214.老いた姉と弟」参照
☆経済界が動きを見せた……「0181.調査団の派遣」「0234.老議員の休日」「0259.古新聞の情報」参照




