0262.薄紅の花の下
熱冷ましの薬を作るだけで二週間も掛かった。
気の遠くなる作業が一段落し、みんな、箱に詰まった紙袋を呆然と見る。
作業台のひとつでは、アウセラートルが検品の最中だ。分量が適切か、次々天秤に掛ける。
……五千回も量るのか。あれはあれで大変そうだよな。
クルィーロは【操水】の術を使い続け、疲れ切った頭でぼんやり思った。
「お姉ちゃん、次、何をお手伝いすればいい?」
「次は……えーっと……」
エランティスに聞かれ、薬師アウェッラーナが一覧表を見ながら考える。彼女も薬を作る術を使い続け、疲れた顔だ。
術者二人だけではない。レノたちすり潰し係は掌の皮が剥けて毎日、夕食前にアウェッラーナの【癒しの風】で治してもらった。
みんな疲れでぼんやりする。
毎日おいしいものを与えられ、ふかふかのベッドで休んでも、朝早くから合計九時間近く働き続けたのだ。無理もない。
……工場でも日曜は休みなのにな。
膨大な魔法薬の製造をたった二カ月ですると請負ってしまったのだ。
休む暇がなくても仕方がなかった。
「今日は一日、休みにしよう」
思わぬところから声が上がった。
自治区民四人は、交替で地虫をすり潰す作業を手伝ってくれた。蔓草細工は期限がない為、こちらより心に余裕があるのだろう。
ソルニャーク隊長はみんなを見回し、もう一度言った。
「働き詰めでは、疲労から思わぬ事故に繋がる。休息を取るのも仕事だと思って欲しい」
「でも、間に合わなかったら……」
エランティスが、レノの後ろに隠れて弱々しく反論した。ソルニャーク隊長は小学生の女の子にやさしく言って聞かせる。
「疲れが溜まると、失敗が増えやすくなる。作業の効率も落ちる。一日ゆっくり休んだ方が、却って早く終わらせられる。わかるな?」
ピナティフィダも、妹を安心させる為に言う。
「ウチのお店だって、お休みの日があったでしょう」
「うん。でも……」
エランティスが心配するのも無理はない。作業はまだまだ山積みだ。
残り時間は一カ月半を切った。
先日、薬師アウェッラーナに見せられた一覧表には、恐ろしい数が並ぶ。
傷薬は、掌大の壺五百個分。十回分入る素焼きの壺は、部屋の隅にまだ空っぽで、箱にぎっしりある。
心臓の薬と熱冷ましと咳止めの粉薬は、一回分ずつ薬包紙で包んだ物を五千包みずつ。完成したのは熱冷ましだけだ。
毒消しは、虫刺され用と化膿止め用をそれぞれ一リットル瓶六十本分。虫刺され用は完成した。
どの薬も、回数にして五千回分ずつだ。
みんなが慣れて、作業効率は上がったが、到底、間に合う気がしない。
間に合わなくても期限が延びて、報酬の【魔力の水晶】が減るだけだ。
それでも、約束を守れないのは何とも落ち着かないし、【水晶】はたくさんあった方が安心できる。
モールニヤ市で、豆粒サイズの【水晶】を幾つかもらったが、それだけでは心許なかった。
焦燥感に駆られるのも無理はなかった。
クルィーロ自身、残る作業に要する時間が読めない。だが、みんなの疲労は限界だ。
……どうすりゃいいんだ、アウェッラーナさん。
「アウセラートルさん、あのお話、お受けします」
「見学と講師の件ですね」
アウセラートルが、検品の手を止めて確認する。了承の意思表示を見て取り、契約者は心から安堵した様子で言った。
「それでは別途、報酬もご用意させていただきます。契約を……」
「前回同様、我々も同席致します」
ソルニャーク隊長がレノの肩を叩き、有無を言わさぬ口調で宣言した。凄みのある視線を受け流し、アウセラートルは湖の民の薬師を見る。
アウェッラーナは一も二もなく頷いた。
「よぉーし! じゃあ偉い人たちが難しい話してる間、他のもんは休憩だ」
メドヴェージが、すり潰し係のロークとファーキルの背を押して出て行く。
レノと目が合った。
「クルィーロ、ピナとティスを頼む」
「おう、わかった。さ、行こう」
クルィーロはアマナの手を引き、レノの妹たちを促して退室した。
薬師アウェッラーナ、店長のレノ、ソルニャーク隊長と契約者アウセラートルを残して廊下に出たものの、どうしていいかわからない。
「坊主と針子の嬢ちゃんも呼んで来らぁ」
メドヴェージが廊下を駆けてゆく。その背中が角を曲がって見えなくなると、エランティスが呟いた。
「おじちゃん、廊下を走っちゃいけないのに」
「……そうねぇ」
ピナティフィダが苦笑する。
「お兄ちゃん、お休みって、今日どうするの?」
「ここんとこ、ずっと部屋に籠ってたから、お庭に出てみようか」
アマナに聞かれ、取敢えず答えた。
自分で言ってドキリとする。
ここに来た初日以外、一歩も外に出なかったと気付いた。蔓草班は時々、材料を採りに街の外へ出るが、こちらは外の光すら浴びない生活だ。
……これじゃ体に悪いよな。
メドヴェージが二人を連れて戻り、九人で玄関に向かう。
「皆様、どちらへ?」
玄関を【操水】で掃除する使用人が、怪訝な顔で聞く。
クルィーロは正直に答えた。
「ちょっとお庭を見せてもらおうかなって。作業が一段落して、店長たちが追加の契約書を作る間、俺たちは休みになったんです」
「左様でございますか。今の時期はアーモンドのお花がキレイですよ」
使用人はにっこり笑った。
「そうなんですか」
「ありがとうございます」
口々に言って玄関を出る。
クルィーロは思わず目を細めた。
春の穏やかな日差しが目に眩しい。風に乗って甘い香りが届く。恐る恐る目を開けた。
やわらかな光の中で鮮やかな新緑が萌え、花壇にも木々にも色とりどりの花が咲き乱れる。白い蝶がひらひら舞い、花々を訪れた。
「……キレイ」
アマナが呟いた。
クルィーロは言葉にできず、妹に頷いてみせることしかできない。
寝室で二人きりになれた初日は、緊張の糸が切れたのか、アマナはクルィーロにしがみついて泣き、泣き疲れて眠った。
それでも日中、みんなと居る間は平気なフリをする。
夜は、クルィーロと二人きりになると兄に甘えて泣き、両親と家を恋しがって泣く。何日もそんな状態が続いた。
泣かずに眠るようになったのは、ほんの数日前からだ。
母は諦めるしかなさそうだが、父は首都クレーヴェルで無事かもしれない。兄妹はネモラリス島に渡れる日を夢見て仕事を頑張った。
不意にできた休日をどう過ごせばいいかわからない。
何もしないでいると、考えが悪い方に向かいそうで怖かった。
エランティスが急かしたのは、期限よりも何もしない不安が大きい気がした。
クルィーロはレノの妹たちを見た。二人とも、庭園の美しさに見惚れる。
「すっかり身体が鈍っちまったな。体操でもすっか」
メドヴェージが独り言のように言って、トラックの方へ歩きだす。みんなも何となくついて行った。
屋敷の東側、ちょっとした広場くらいの空間に停めてある。
ガレージがないのは、この屋敷の住人が【跳躍】などで移動できる魔法使いばかりだからだろう。
「ほぉー……こいつぁ見事なモンだ」
メドヴェージがトラックの傍の大木を見上げる。
少年兵モーフも、ぽかんと口を開けて驚く。
薄紅色の花が、地上に降りた綿雲のように広がる。枝葉の隙間から見える薄青い空には雲ひとつない。
九人は言葉もなく、アーモンドの大木を眺めた。
アーモンドはゼルノー市の鉄鋼公園にもあったが、内戦後に植えられた若木ばかりだ。この屋敷の木々は相当な年輪を重ねた古木で、大地にどっしり根を降ろし、大きく広げた枝が天を覆う。
……これを見られただけでも、休みになってよかったよな。
レノたちにも見せてやりたいが、アウセラートルとの話し合いがいつ終わるかわからない。
「おばちゃんの言った通り、キレイね」
アマナがクルィーロの手を強く握る。目には花の色を映すが、仄暗い影が差す。
クルィーロは、小さな手を握り返して同意した。
「ホントだな」
……父さんと母さんにも見せてあげたい。
兄妹は同じ思いを口には出さず、薄紅の花を見上げた。




