0236.迫りくる群衆
針子のアミエーラは、係員室のドアの前で震えた。
狭い部屋は子供たちだけでいっぱいだ。少しでも時間稼ぎになるよう、蔓草でドアノブを縛り、もう一方は荷台の金具に括りつけて固定した。
刃物で切られればそれまでだが、何もないよりはマシだろう。
子供たちには、布団と鞄でドアの前を塞ぐように言ってある。
男の子たちは、長机をバリケードにして街の住人を防ぐ。
モーフとロークが前、少し後ろで、もう一台の机をファーキルが押さえる。
ファーキルの後ろには、水の箱と荷物を置き、少しでも奥への侵入を遅らせるようにした。
……アウェッラーナさん、早く……早く帰ってきて……!
祈る思いで湖の民の薬師の帰りを待つ。
聖者キルクルスに祈ったところで、何の助けにもならない。
今、この状況を打開できるのは、魔法使いの薬師アウェッラーナだけだ。
……力なき聖者……そりゃそうよね。ずっと昔に死んじゃってるし、魔法使いでもなんでもないんだから。
魔法使いなら、【魔道士の涙】に魔力を残せる。
アミエーラは子供の頃、【涙】に魂を封じた魔法の道具があると耳にした。
リストヴァー自治区のキルクルス教会では、「輪廻の理から外れる悪しき業だ」と教えられた。
……でも、今、生きて困ってる人たちを助けてくれるのは、そう言う力なのに。この街の人たちだって、お薬がなくて困ってるから、こんな……
「帰れっつってんだろがッ!」
モーフが乱暴な物言いで、荷台に手を掛けた男性を追い払う。
広場は人が多く、トラックは人が走る程度の速度で逃げ回る。
何かの魔法で荷台の扉をこじ開けられ、トラックに追い縋る人の群が見える。何人居るのかもわからない。全て、アウェッラーナの魔法薬を求める人々だ。
……ラクリマリスは魔法の国なのに、どうしてお薬がないの? みんな魔法が使えるのに、どうして自分で作らないの?
さっき、運転席の方で誰かが「材料はある」と怒鳴った。
アウェッラーナは、足りない材料をお客さんに持参させて、魔法薬を作った。
アミエーラは魔術の知識が乏しく、何故、この街では材料があっても薬がないかわからない。
モーフの怒声にも、他の二人の説得にも、街の住人は耳を貸さない。
一人の男性がトラックに追い付き、荷台によじ登った。モーフの胸倉を掴み、怒鳴り返す。
「坊主、さっさと薬師を出せッ!」
「今は留守だっつってんだろッ!」
モーフが男性の手首を掴んで叫ぶと、ロークとファーキルも加勢した。
「こっちも商売ですから、隠したって仕方ないでしょう!」
「ホントに居ないんですってばッ!」
扉にしがみついた男性が、荷台内に回り込む。
「そのドアの向こうに居るんだろッ!」
「居ませんッ!」
アミエーラは思わず叫んだ。
何故、同じ言語で話すのに、こんなにも言葉が通じないのか。
……居ないものは居ないのに。どうしてわかってくれないの?
これは、そんなに難しい話だったろうか。
薬師がこの場に居るか、居ないか。答えはたったふたつしかない。
アミエーラたちは何度も「今は居ない。組合長の所へ行った」と事実を説明したのだ。
何故、わかってくれないのか。
何故、嘘だと決めつけるのか。
アミエーラには、言葉の通じない人の群が、雑妖の群と同じに見えた。
「おっさん、降りろよッ!」
モーフが、男性の手を強引に振り解いた。男性は後ろ向けに落ち、小走りについて来る人の群にぶつかる。幾つも悲鳴が上がった。
ロークが強張った顔でモーフを見る。
「お前ら、しつこいぞッ! 嘘だと思うんなら、組合長んとこ行けよッ!」
モーフはぶつかって脱落した人々に構わず、未だについてくる人の群に怒鳴る。
扉の男性が荷台に跳び移った。
「でも、在庫くらい、あるんだろ?」
「ありません!」
「材料が足りなくて、ないんです!」
ロークが、長机に身を乗り出す男性の肩を押さえ、ファーキルが首を横に振る。
「アウェッラーナさん、早く帰ってきてッ!」
アミエーラは思わず叫んだ。
突然、トラックがブレーキを掛けた。大した速度ではなかったが、車体が揺れ、荷台の端にいた男性が落ちそうになる。ロークがその肩を押さえ、何とか転落は免れた。
トラックのすぐ後ろを走る人々が、荷台にぶつかる。後続の人々がその背によじ登り、荷台に這い上がって来た。
「ちょっ……! お前ら、待て待て待てッ!」
モーフがその手を蹴飛ばすが、別の者に足を掴まれ、身動きとれなくなった。
ロークが青い顔で振り向く。
「メドヴェージさんッ!」
アミエーラは係員室のドアを叩いた。
「メドヴェージさん、メドヴェージさんッ!」
悲鳴のように呼称を叫ぶだけで、何を頼めばいいかわからない。
アミエーラの背後で、人の群が長机をあっさり乗り越え、水の箱に迫った。
「止まれッ! 止まりなさいッ!」
「はいッ! 降りて、降りてッ!」
警笛のけたたましい音と、野太い制止の声で、荷台へ雪崩れ込んだ群衆が一斉に振り向いた。
「ドーシチ市警だ!」
「荷台から降りなさいッ!」
何人もの声と警笛の鋭い音が、群衆を我に返らせる。
……市警……警察?
助かったとの安堵で、膝から力が抜けそうになる。
警官隊に引きずり降ろされ、男性たちはささやかな抵抗として、口々に言い訳を並べた。
モーフとロークも一緒に降ろされ、ファーキルだけが、水の箱のこちら側に倒れ伏す。
「あ……! だっ大丈夫? しっかりして!」
アミエーラが駆け寄ると、ファーキルは身を起こして辺りを見回した。
群衆に黒い制服姿の男性たちが混じる。彼らがここの警官なのだろう。それだけ見て、ファーキルに怪我がないか確める。
「あっあの、この二人は、ウチの従業員です」
レノ店長の声で、アミエーラとファーキルは弾かれたように顔を上げ、姿を捜した。二人がみつけるより先に本人が荷台へ上がり、モーフとロークも続く。
レノ店長は、後の二人と一緒に長机を乗り越え、こちら側から起こすと、群衆に向き直った。
「おはようございまーす! 俺、この移動販売店見落とされた者の店長です」
自己紹介した若い店長に人々が注目する。
「商業組合長さんとの話し合いで、二カ月間、このドーシチ市で、商売することになりました!」
「二か月……?」
モーフとロークだけでなく、群衆からも戸惑いの声が漏れた。
それが長いか短いか、針子のアミエーラには、判断できない。
レノ店長は、波紋となって広場に伝わる困惑と「二カ月」の呟きに構わず、説明の声を張り上げた。
「ウチの薬師は、今、組合長さんのお家で、魔法薬を作っています。薬が必要な方は、商業組合を通して注文して下さい!」
人々の間から、疑問と怒りの声が上がる。
「組合長が独占販売する気か?」
「注文して、いつまで待てばいいのッ?」
「このまま逃げるんじゃないだろうな?」
「薬師を独り占めして、組合長だけ儲ける気なんだ!」
「ホントに売ってくれるのか?」
レノ店長は、忌々しげに吐き捨てられた言葉に落ち着いた声で答えた。
「ウチが直接売ろうとしたら、こうなったんですから、仕方ないでしょう」
その声で、手前に居た人々がバツの悪そうな顔を地面に向けた。
「組合長さんはそれを見越して、提案して下さったんです」
レノ店長の説明で、最初に組合長への疑問を吐き捨てた男性が、更に言い募る。
「暴利を貪ろうってハラか?」
「隣のプラヴィーク市よりも安く売るって言ってましたよ。ちゃんと契約書も交わしました」
レノ店長の返事で、安堵と不安の入り混じった空気が広がる。
「さぁ、散った散った!」
「魔法薬が欲しい者は、商業組合の事務所へ行きなさい!」
警官隊が警笛を吹き鳴らし、群衆に解散を促した。
☆力なき聖者……「0003.夕焼けの湖畔」「0118.ひとりぼっち」「0141.山小屋の一夜」参照
☆材料が足りない分、お客さんに持って来てもらって魔法薬を作った……「0217.モールニヤ市」参照




