0235.薬師は居ない
コツコツコツ。
クルィーロは、窓ガラスを打つ音で目を開けた。
まだ夜が明けきらず、白み始めた濃紺の空には星が残る。助手席の窓を見て、一気に目が覚めた。毛布を跳ねのけ、見回す。
……囲まれてる。
運転席を見ると、メドヴェージは既に目を覚ましていた。
「あ、起きてくれた」
「なぁ、早く薬売ってくれよ」
人々の声が漣のように広がる。
目を凝らすと、広場は人でいっぱいだ。
……薬ったって……。
肝心の薬師アウェッラーナは、商業組合長の所へ行ったまま、まだ帰らない。一緒に行ったプラエテルミッサの店長レノと、星の道義勇軍のソルニャーク隊長も、まだだ。
「早く売ってくれよ」
「材料はあるんだ」
男たちが拳でドアを叩く。
クルィーロとメドヴェージは顔を見合わせた。
「兄ちゃん、絶対、窓やドアを開けんじゃねぇぞ」
運転手のメドヴェージに低い声で言われ、クルィーロは小さく頷いた。大きく息を吸い込み、メドヴェージがフロントガラスに向かって声を張り上げる。
「今ッ! 薬師が居ないんでッ! 出直してくれッ!」
トラックの周囲がしんと静まり、人々が困惑した顔を見合わせる。
「何で居ないんだ?」
「ホントは居るんだろ?」
「薬師はッ! 商業組合長んとこへッ! 営業許可取りに行ってッ! まだ戻らねぇんだッ!」
メドヴェージが大声で答えると、人々が復唱し、困惑と疑惑、落胆、怒り、焦りと共に波紋となって、広場全体へ伝わった。
「そんなコト言って、ホントは居るんだろ?」
運転席のドアを叩いた男が、メドヴェージを上目遣いに見る。運転手は首を横に振った。
「どっちが薬師なんだ?」
「薬師は組合長の所ですッ!」
クルィーロも、メドヴェージと同じことを怒鳴った。
「そんなコト言って、ケチケチすんなよ」
「薬師は荷台か?」
「留守でも薬は持ってんだろ?」
「開けろッ!」
「在庫くらい、あるんでしょ?」
「開けろ開けろッ!」
広場に詰めかけた人々は諦めるどころか、ますますいきり立ち、トラックに押し寄せた。
「お兄ちゃん……」
アマナの声に振り向く。妹は、係員室の小窓に背が届かない。
不安に押し潰されそうな声に思わず抱きしめたくなったが、助手席からでは小部屋へ行けない。
「薬師は荷台に居るぞッ!」
「居ませんッ!」
「組合長ンとこだっつってんだろッ!」
誰かの言葉で、人々がトラックの後ろへ回る。荷台が揺れた。把手を掴み、力任せに開けようとするのか。
女の声が、トラックの後方で力ある言葉を紡ぐ。
……ヤベッ! 扉……ぶっ壊す気かよッ?
クルィーロの知らない呪文だ。血の気が引いたが、今更止められない。
荷台の後方で、少年兵モーフが怒鳴る。
「在庫なんかねーよッ! 材料足んねぇから持ってってもらって、その場で作った分、全部渡してんだッ!」
「嘘だと思うんなら、モールニヤ市の人にも聞いて下さい!」
「昨日の男の人にも聞いて下さいッ! 薬はひとつもないんですッ!」
ロークとファーキルも叫ぶ。
クルィーロは助手席のドアに手を掛けた。
「兄ちゃん、ダメだ」
「でも……」
「戦う力もねぇのに、出てってどうする」
このままでは、アマナたちが何をされるかわからない。
荷物の中には一人ひとつずつ、紙コップに入れた傷薬がある。これの存在が知られれば、もっと寄越せと他の物も略奪されるだろう。
「でも……」
クルィーロの言葉をクラクションが遮った。
メドヴェージがエンジンを掛ける。同時に、女の呪文が完成したらしい。荷台が開いた。サイドミラーの中で、扉が勢いよく開け放たれる。
「どけーッ!」
メドヴェージがアクセルを踏み込んだ。前方に残った人垣が、さっと左右に分かれる。
広場に詰めかけた人の群が、トラックから逃げ始めた。
離れた位置で、何事か把握できなかった者も、立て続けに鳴るクラクションと迫り来るトラックに気付き、慌てて道を開ける。
クルィーロはサイドミラー越しに後方を見た。
荷台の扉に人がぶら下がる。徒歩で追い縋る人が群を成した。
少年兵モーフが、何とか諦めさせようと、繰り返し叫ぶ。
「薬師は組合長ンとこだっつってんだろッ! 帰れッ!」
「材料不足なんです!」
「在庫はありません!」
「材料は持って来た! さっさと車停めて作れッ!」
「薬師は居ねぇっつってんだろッ!」
モーフに言い返す者は居ないが、ロークとファーキルでは迫力負けするのか、押し切れそうだとナメられたのか。
「兄ちゃん、魔法でなんとかなんねぇか」
「何とかって言われても……」
暴徒化したとは言え、街の住人相手に戦うワケにはゆかない。
そもそも、クルィーロは【急降下する鷲】や【飛翔する鷹】などの戦う術を知らなかった。
「……俺の知ってる術じゃ、どうにも……すみません」
「いや、いい。連中も一緒だろ。扉開けた奴以外、魔法使ってねぇみてぇだ」
クルィーロは項垂れたが、メドヴェージの冷静な言葉で顔を上げた。だが、運転手にも土地勘がなく、どこへ行けばいいかわからない。トラックは広場の中を逃げ回るだけだ。
空はすっかり明るくなったが、朝市どころではなく、事情を知らず売り物を持って来た人々が、広場の隅で呆然と見守る。
……見てないで、こいつら止めてくれよ。
クルィーロは祈る思いで商人たちを見たが、誰も動かなかった。
トラックの燃料は残り僅か。荷台に予備はあるが、この状況では給油できない。
……このままじゃ、燃料が尽きたら終わりだ。
クルィーロはその時に備え、シートベルトを外した。




