0023.蜂起初日の夜
湖の民の薬師アウェッラーナは、警察署の駐車場で傷薬を作っていた。
警察職員が、荷造りロープを輪にした中に【簡易結界】を張り、雑妖などを防いでくれる。
結界内で、右手に乾燥した薬草の束、左手には【魔道士の涙】を握り、もう何時間も同じ呪文を唱え続ける。
科学の薬剤師と看護師の生き残りが、傷薬で満たした容器を持って行き、手伝いの住民が、空の容器をアウェッラーナの前に置く。
傷が内臓に達した重傷者は、呪医が引き受けた。
この辺りを襲ったテロリストは、最終目標が警察署と市民病院だったのか、周辺では銃撃などによる被害は、これ以上増えなかった。
火災も、燃える物は全て焼き尽くし、火の手は風に煽られて北へ向かった。
鉄鋼公園のグラウンドが延焼を食い止め、病院は辛くも焼失を免れた。
警察職員が毛布を運び出し、駐車場や公園に逃れた人々に分配する。
風が吹く度に灰と煙が人々を襲う。
毛布などに包まってやり過ごせる者はまだ幸いだ。何も持たず、焦げ臭い服の袖やハンカチで鼻と口を覆うしかない者の方が多い。
どの避難者にも、形を成さぬ雑多な妖魔が集る。祓う力を持たない者が大半で、されるがままだ。
「ごめんな。これ、お医者さんの分だから。ごめんな」
年配の男性が、手を伸ばす幼児に謝りながらグラウンドを抜ける。
白い服……医療者の白衣ではなく、調理師の服だ。煤で汚れ、全体に灰色掛かっていた。
蹲る避難者に当たらないよう、業務用のゴミ袋を高く持ち上げて通る。
魔法の【灯】で透けて見える袋の中身は、潰れたパンだ。
「お医者さんが腹ペコで倒れたら、怪我人を治せないだろ?」
幼児は何も言わず、頷いた。
周囲の大人にこの子の親らしき者の姿はない。パン屋の主人が笑顔で手を振り、幼児から離れる。
「辛抱してくれよ」
「バイバーイ」
幼児は無表情のまま、手を振り返した。
水も食糧も寒さを防ぐ物も、何もない。
力ある陸の民とフラクシヌス教信徒会の湖の民が、協力してグラウンド全体に【簡易結界】を張る。棒切れで土の地面に切れ目なく線を引き、グラウンドを囲む。その線上で十数人が等間隔に並び、同じ呪文を唱和した。
湖の民の詠唱に、力ある陸の民たちの声が続く。
「此の輪 天なり 六連星 満星巡り
輪の内 地なり 星の垣 地に廻り
垣の内 呼ばぬ者皆 立ち去りて 千万の昆虫除けて
雑々の妖退け 内守れ 平らかなりて 閑かなれ」
雑妖や弱い魔物は、線の内側に入れなくなった。既に内部に居る雑妖は、魔法使いたちが術で退治する。
少なくとも、雑妖には煩わされなくなり、ホッと息をつく。
寒さに白く凝った息が風に流されて消えた。
パン屋は、ひとまず安全になったグラウンドを出た。
閉め出された雑妖が足下に群がる。不快だが、パン屋にはこれを祓う力がない。仕方なく、そのまま信号へ向かった。
停電で機能を失った信号機が支柱に【灯】が点され、街灯代わりに周囲を淡く照らす。警察職員が【灯】を点したペンを振って交通整理する。パン屋ら数人の歩行者に気付き、ペンを振って車を止めた。
パン屋は市民病院へ向かう。
こちらは、治療済みの避難民と患者だけだ。荷造りロープの【簡易結界】があちこちにある。一枚の毛布を二、三人で使い、互いに温め合っていた。
警察署の駐車場は、さながら野戦病院の有様だ。
所々に【灯】が点され、薄明るい。【簡易結界】の中では、血塗れの負傷者が、ある者は横たわり、ある者は蹲って、治療を待つ。
看護師たちが傷を洗う【操水】、唯一の呪医が【止血】や【縫合】、薬師たちはそれぞれ、異なる薬を作りだす呪文を口々に唱える。
その他は、知り合いを捜す声、警察職員に詰め寄る声、負傷者を励ます声、負傷者の呻き声。
結界の外を焼け跡から闇に滲み出した雑妖が埋め尽くす。
科学の薬剤師と看護師たちが、負傷者に魔法薬の傷薬を塗って回る。
パン屋は看護師の一人に声を掛けた。
「このパン、食べて下さい。急いでたもんで、こんな袋ですが、新品なんでキレイです」
若い看護師が立ち止まり、困惑の目を向けた。病院の事務員らしき年配の男性が代わって応える。
「よろしいんですか?」
「えぇ。ウチの売りもんですけど、こんな時ですし、どうぞどうぞ。さっき、病院の厨房が爆弾で吹っ飛ばされて、食べるもんがないって聞いたもんですから」
パン屋は袋を差し出して、中身の惨状に気付いた。
人混みでもみくちゃにされ、どれもひしゃげている。
「こんな有様ですみませんが、お医者さんや看護師さんたちでどうぞ」
「いいんですか?」
若い看護師が驚く。言った直後、腹が鳴った。
「マズくなってるかもしれませんが、病院の皆さんがひもじくて倒れたら、怪我人も助からなくなりますんで……」
「いえいえ、とんでもない。大助かりです。ありがとうございます」
互いに何度も頭を下げ合いながら、潰れたパンの寄付が成立した。
パン屋は晴れやかな笑顔で鉄鋼公園へ戻った。
グリャージ区の製鉄会社が造成し、ゼルノー市に寄贈したのでこう呼ばれる。
公園は、ブランコや滑り台などの遊具を置いた区画と、金網に囲まれたグラウンドの二区画に分かれる。
遊具の区画は植込みの木々が燃えて酷い状態だ。
避難者がグラウンドに身を寄せ合う。
パン屋の主人は、妻と子供たちを呼びながら、人々の間を歩いた。
長男は先に幼馴染と逃げた。妻とは逃げる途中ではぐれてしまった。長女と次女は学校だった。
「公園はこうやって無事なんだ。学校だって、校庭が火を食い止めたに決まってる。それに、学校や何かは【耐火】の術を組込んで建てたってハナシだしな」
独り言で自分を励まし、娘二人は明日の朝、明るくなってから迎えに行くことに決めた。今夜はここに留まり、妻と息子を待つ。
魔力のないパン屋が、夜に出歩くなど以ての外だった。
「パニセア・ユニ・フローラ様、どうかお守り下さい」
老婆が湖の女神に祈りを捧げる。力なき民は、神に祈ることしかできない。
グラウンドのあちこちで、毛布を奪い合って喧嘩が起きた。
女性の悲鳴、子供の泣き声、男の怒声。
誰かが警察の職員を呼んできた。
渋々仲裁に応じた一団もあれば、反論して術で捕縛される集団もあった。
いつ、またテロリストの襲撃があるとも知れず、パン屋の主人は眠れぬ一夜を過ごした。




