0220.追憶の琴の音
リストヴァー自治区へ赴いた調査団が、首都クレーヴェルに帰還した三日後。
異例の早さで、魔獣の討伐隊を派遣する決定が下された。
ゼルノー市に隣接する自治区だけでなく、キパリース市以南で、住民が取り残された小集落への救援物資の分配や、救助隊の派遣も決定した。
最近、アーテル軍の空襲が止み、与党「秦皮の枝党」内の若手議員から、今の内にと声が上がったのだ。
政府はそれを受け、調査結果の一部を公開した。
調査団長ラクエウス議員が、政府から得た感触は「言われたから渋々」だ。
決定はしたが、政府が調査結果を精査し、届ける物資の種類と量の決定、その調達には時間が掛かる。
輸送が始まるまでにどれ程の餓死者が出るか、ラクエウス議員は想像もしたくなかった。
各新聞社が、公開された報告書から、空襲被害の航空写真を掲載し、取り残された住民の存在を拾い上げる。
ラジオでも、報告書の抜粋を読み上げた。巨大な魔獣の存在を繰り返し伝え、南部には行かないよう、国民に冷静な対応を呼び掛ける。
経済団体、信仰を越えて弱者を支援する人権団体などからは、調査団を賞賛する声と、政府の対応の遅さを批難する声が上がった。
家電や自動車などのメーカーが、自治区の工場と工員の無事を知り、独自に資材と救援物資を運搬する手配を始める。
少なくとも、リストヴァー自治区は、アーテル軍の空襲対象から外された。
複数の大企業が直ちに手を結び、自治区の支援に動く。まず、魔獣駆除業者と契約し、救助隊に加えた。
そこで暮らす人々に食糧と仮設住宅と仕事を届ける為。そして、自社が必要とする機械部品を確保し、倒産を回避する為。
倒産すれば、たちまち多くの人が路頭に迷う。
物資の供給がますます滞り、生活不安を煽る。
経済が悪化すれば、戦災復興もままならない。
この状況で絶対に会社を潰すことはできない。
人権団体、慈善団体、フラクシヌス教の信者団体なども、キパリース市以南に取り残された住民の救助隊を組織した。
乗用車などの移動手段がなくとも、魔力の強い者が【跳躍】すれば、連れて行ける。一度に救助できる人数は少なく、人身売買業者が紛れこむ惧れもあるが、何もしないよりずっとマシだ。
まだ、そこで生きている人を見捨てることはできない。
生きたまま魔獣の餌になると知った上で看過できない。
そこから連れ出せずとも、せめて食糧だけは届けたい。
調査団が持ち帰った情報が公表されると、それぞれの思いを源に無数の人々が、命を懸けて動きだした。
首都クレーヴェルも空襲を受けたが、その規模と被害は微々たるものだ。
空襲から一カ月経った現在は、瓦礫の撤去が済み、一部は地権者の厚意で仮設住宅の建設が進む。
議員宿舎のある辺りは、全くの無傷だ。
ニュースさえ聞かなければ、平和そのものに見えた。
ラクエウス議員はラジオを切り、クローゼットから竪琴を取り出した。
弾かなくなって久しいが、手入れだけは怠らない。ベッドに腰掛け、古びた竪琴を爪弾いた。
ラキュス・ラクリマリス交響楽団時代と変わらぬ音色が、聴く者のない議員宿舎の一室に浸み透る。
若い頃、体で覚えた運指練習曲だ。何度か手応えを確め、指の動きを思い出す。
ひとたび弾き始めると、殆どブランクを感じさせない滑らかさで音を紡げた。
一通り練習を終え、掌の汗をズボンで拭う。
一呼吸置いて、再び指を弦に走らせる。
……これは確か、民族融和の歌で……何と言う題名だった?
民族自決の思想が広まり、世相にきな臭さが漂い始めたが、まだ平和だった頃。
その作曲と収録は、ラキュス・ラクリマリス王国の共和制移行百周年と、国営放送局創立百周年の祝賀用に企画された。
先に曲が用意され、歌手も決定した。
作曲者は【歌う鷦鷯】学派の魔法使いだが、呪歌の効果はないとのことで、キルクルス教徒の国民も安心して歌えるとの触れ込みだった。
この曲をラジオで放送し、歌詞は公募予定だったが、直後の選挙で、アーテル独立党が圧勝した。彼らは人種、宗教を問わず「民族自決」を掲げ、島単位で独立する政策を掲げた。
ラキュス・ラクリマリス放送協会の一部で、急速な民族自決思想の台頭に危機感を覚えた者たちが、収録を急がせた。
公募の実行すら困難な情勢で、止むを得ず、湖の民の詩人が、作詞者の指名を受けた。
歌詞が確定するまで、歌手はスキャットで旋律を練習させられた。
ラクエウス議員……当時はハルパトールと呼ばれた若き竪琴奏者は、本番では伴奏担当だが、歌手の練習の誘導で主旋律を奏でた。
「これだけは、絶対に変えないから」
詩人に言われ、一部だけ先渡しされる異例の対応もあった。
悪いことは重なるものなのか、詩人が製作途中で病に倒れてしまった。
冒頭だけは歌詞があり、歌手はそこだけ普通に歌った。
途中から歌詞を忘れた人のようで、若き日のハルパトールは笑いを堪えるのに苦労した。
あの頃は、あんな内戦に発展するとは思いもよらず、代役の詩人もすぐ決まるだろうと暢気に構えた。
あの女性歌手の名を思い出せない。
だが、冒頭の歌詞だけは、まだ記憶にある。
穏やかな湖の風
一条の光 闇を拓き 島は新しい夜明けを迎える
涙の湖に浮かぶ小さな島 花が朝日に揺れる
あの金髪の魔女の歌声が、ハルパトールの胸で鮮やかに甦った。
顔も忘れてしまった。
輝く金糸のような髪と、透明で伸びやかな声。ハルパトールの中に残った彼女はそれだけだ。
何人もの詩人に断られ、新任の作詞家が決まる矢先に内乱が始まった。
歌手は、民族融和を謳うことに身の危険を感じ、家族と共にネーニア島へ移住してしまった。
彼女が選ばれたのは、フラクシヌス教徒の力ある陸の民だが、キルクルス教徒の力なき民と結婚したからだ。夫婦の親族も含め、民族融和の象徴として、レコードの発売時に披露される予定だった。
その後、代わりの歌手はみつからず、作詞を引き受けた詩人は凶弾に斃れ、あの歌の制作は立ち消えになった。
ハルパトールは、例の曲の収録が結局どうなったか、知らない。
ネーニア島へ渡った女性歌手の消息も、全くわからない。
恐らく、生きてはいまい。あの家族は、どの陣営からも生命を狙われただろう。
いっそ、思い切ってアミトスチグマ辺りにでも亡命してくれればと思わなくもないが、今更どうなるものでもない。
もう、何十年も昔のことなのだ。
題名を忘れた曲だが、主旋律は最後まで覚えていた。
最後の一音が長く尾を引いて消える。
次に、「この大空をみつめて」の主旋律を奏でた。
仕事で演奏したのは、伴奏をほんの数回限りだが、毎日、ラジオから流れる天気予報のBGMだ。
老いたハルパトールの筋張った指が、難なく主旋律をなぞる。
団長は、楽譜を配る前に曲の説明をしてくれた。
「この曲は、【飛翔する燕】学派の呪歌【やさしき降雨】のアレンジだ」
キルクルス教徒のハルパトールは、穢らわしいと思ったが、続く説明で考えを改め、楽譜を受け取った。
この曲を魔法として発動させるには、作用力と強い魔力の他、生まれた日が雨天であるとの厳しい条件がある。
それを満たさぬ者は、どんなに優れた歌い手や奏者でも、雨を呼べない。
団長は更に、断片が伝わる民謡の多くは、失われた呪歌のかけらだとも言った。
普通の楽曲でも、人の心を揺さぶれる。
普通の曲に力ある言葉で歌詞を付け、力ある民が魔力を乗せて歌えば、僅かだが、魔法としての効力を持たせられる。
音楽と魔術の親和性は高く、両者の境界は曖昧だ。
……そう言えば、あの歌手は、これも歌ってたな。
歌詞は、力ある言葉の呪文ではなく、湖南語で書かれた普通の詩だ。
気象庁の業務と、四季、天候などを織り込んだ詩で、歌っても雨は降らない。
こちらは、シングルレコードが発売された。
……ニプトラだ! ……ニプトラ・ネウマエ。
不意に女性歌手の名を思い出した。呼称ではなく、芸名の方だ。
今はラクエウス議員と呼ばれるハルパトールは、もう一度、あの歌声を聴きたくなった。
☆リストヴァー自治区へ赴いた調査団……「0212.自治区の様子」~「0214.老いた姉と弟」参照
☆巨大な魔獣……「0184.地図にない街」「0185.立塞がるモノ」「0200.魔獣の支配域」参照
☆調査結果……「0181.調査団の派遣」「0190.南部領の惨状」「0200.魔獣の支配域」参照
☆民族自決の思想が広まり……「0019.壁越しの対話」「0059.仕立屋の店長」参照
☆「この大空をみつめて」……「170.天気予報の歌」参照
☆【飛翔する燕】学派の呪歌【やさしき降雨】……「178.やさしき降雨」参照




