0022.湖の畔を走る
建物の隙間、路地の向こうにラキュス湖が細く見える。
レノは国道を西へ渡ることは諦め、湖へ向かうことにした。
「すみません、通して下さい」
声を掛けながら、泳ぐような動きで人混みを掻き分ける。
やっとのことで金物屋の前に出た。ショーウィンドーの向こうで、店主と店員が通りに溢れる群衆を不安げに見守る。
レノはショーウィンドーに沿ってじりじり進み、店舗と民家の間に身体を滑り込ませた。
人の圧迫から解放され、ホッとしたのも束の間、湖から吹く風の冷たさに鳥肌が立った。
コートも何もない。普段着の上にエプロンを着けただけだ。魔法使いなら、【耐寒】の術を織り込んだ服で寒さを凌げる。
力なき民のレノでは、そうは行かない。
……走ったら、あったまるさ。
体を少し傾け、人ひとり通るのがやっとの路地を小走りに抜ける。民家二軒分、駆け抜けて顔を上げた。
漁港の端だ。ラキュス湖が冬の薄日にやさしく輝く。
レノは、湖の女神パニセア・ユニ・フローラに祈りを捧げ、南に目を向けた。爆発音に続いて、破片が飛び散る。
……爆弾……ッ?
クルィーロの言葉を思い出し、寒さではない理由で足が震えた。
南から火の手と黒煙が近付いてくる。
耳慣れない軽い音に続いて悲鳴と怒号が上がる。
……銃……機関銃? 父さん、母さん……!
炎の先端は、民家十軒分程しか離れていない。
湖の民の警官や住民が合わせて十数人、【操水】の術で湖水を起ち上げ、消火に当たっている。
魔力が弱い者ばかりなのか、それだけの人数にも関わらず、一度の放水がバケツ数杯分にしかならない。それも突然、ヤル気を失くしたように落下する。火元に届く前に地面にこぼれ、全く消火の役に立たない。
臨時の消火隊が煙に巻かれ、咳込む内に火勢が増す。
力なき民のレノは、北へ走った。
漁船は予想通り、全て出払っている。消火用ポンプも何もない状態では、魔法使いではないレノにできることは何もなかった。
湖の東岸を北上して、突き当りのニェフリート運河沿いに西進し、鉄鋼公園を目指すと決めて駆けた。
運河は、ゼルノー市北端のセリェブロー区と、漁港があるジェリェーゾ区との境を流れる。
レノは、ほぼ無人の漁港を全力で駆け抜けた。
走りながら時折、家々の隙間から大通りを覗く。人がぎっしり詰まり、身動きできない様子が見て取れた。
……何で、あんなに詰まってんだ?
ニェフリート運河まで行けば、国道と歩道も西へ曲がる。そこから、坂を上ってネーニア島の内陸部まで行ける筈だ。
運河の対岸、セリェブロー区にまで延焼するとは思えない。
国道と運河が接する所には開閉式の橋が掛かる。そこを渡り、更に北へ逃れる人が多い筈だ。西行きの道は空くだろう。
レノは走りながら考えるが、情報不足で何もわからなかった。
百聞は一見にしかず。
……行けば、わかるさ。
妹たちも心配だが、学校なら、先生たちが何とかしてくれそうな気がした。校舎を避難所にして、家を焼かれた人々に解放しているかもしれない。
警察と軍隊も、校庭を拠点に救助や防衛をする筈だ。
両親の方が心配だった。
火の手はもう自宅兼店舗は勿論、はぐれた地点をとっくに通り過ぎている。人波に流されたのは、みんな同じだ。
両親とクルィーロも、この近くに居ると信じるしかない。
湖の民と力ある陸の民も、全く手を拱いている訳ではない。消防署や警察任せではなく、消火活動に加わる住民も居る。
……テロリストに反撃する人だって、居るだろう。
魔法使いの三割程度は、何事もなければ千年近く生きる長命人種だ。
一般人の中にも、半世紀の内乱を生き抜いた戦士が居る。それも、たったの三十年では年老いていない。充分、現役の戦士として戦える。
……自治区の奴らって、何も考えてないんだなぁ。勝てるワケないのに。
不意打ちだからこの惨状なだけで、魔法使いたちが反撃に転じれば、すぐに制圧される筈だ。
勝てる見込みのない喧嘩を売れば、その結果どうなるのか。後先考えない無謀な蜂起に、レノは自治区のキルクルス教徒が哀れになった。
レノは走った。とにかく走った。
幼い頃から足が速く、駆けっこで同い年の子に負けたことはない。走るのが好きで、今でも雨の日以外は毎朝、家と近所の公園で一時間くらい走る。
レノ……「馴鹿」は、俊足と髪の色から付いた呼称だった。
ひたすら走って、無人の漁港を抜ける。
魚市場も干物の加工場も静まり返っていた。
呼吸が乱れ、汗が目に入る。流れる汗を袖で拭い、立ち止まらない。
合流場所の鉄鋼公園に行けば、みんなに会える。
それだけを信じ、白い息を後ろに流して走り続けた。
日が傾き始める頃、ジェリェーゾ区の北端、セリェブロー区との境を流れるニェフリート運河に出た。
橋が上がっている。橋の操作盤には鍵が掛かっていてどうしようもない。人も車もやむを得ず、運河沿いの道を西へ曲がった。
前方に人集りが見える。レノは少し足を緩め、人集りに近付いた。荒い呼吸を整えながら、袖で汗を拭う。左手側は家々の壁が続く。その向こうで、道がどうなっているのか全くわからない。
人集りの原因は、瓦礫の山だった。
更に近付くと、人々が素手で瓦礫を除けているのがわかった。
……生き埋めになってんのか?
辺りにはガソリン臭が濃い。見ると、大型トラックが横倒しになり、瓦礫の山へ食い込んでいた。角を曲がり切れず、民家を二、三軒、薙ぎ倒したらしい。
民家の向こうに車列が続く。
事故現場を避ける為、車も歩行者も速度が落ちていた。
爆発音が腹に響く。
「おい、そこ! もう諦めろ!」
「火がそこまで来てる!」
「ガソリンに引火するぞ!」
歩道からの声に、瓦礫を掘る者たちが一斉に顔を上げ、南を向いた。レノもつられて振り返る。
……嘘だろ? あんなに走ったのに……
愕然とした。
火が一区画手前にまで迫っていた。機関銃の音も、先程より近い。
逃げ惑う人が路地に殺到し、瓦礫を踏み越える。もう救助どころではない。レノも人の流れに押し流される。
瓦礫を乗り越え、運河の畔を西へ、西へと流される。
勢い余って運河に落ちる者もあった。
真冬の運河に衣服を着たまま落ちたのでは、どの途助からない。今は助ける余裕もない。
水が盛り上がった。
運河に落ちた人々が、悲鳴を上げる間もなく次々と姿を消す。生き物のように動く水が、這い上がろうと岸壁に付着した貝にしがみつく者を一呑みにする。
湖の魔物。
幽界から現世に迷い込み、ラキュス湖に棲み着いたモノたちだ。
この世に現れたばかりのモノは、定かな肉体を持たない。殆ど湖水と一体化しているが、湖の女神の加護により、陸地の魔物より成長速度はずっと遅い。
この世の生物を喰らう度に、この世での存在が確かなものとなる。先の内戦で、多くの人肉を喰らい、肉体を得て更に力を増したモノもいた。
魔物は、ラキュス湖とニェフリート河を繋ぐ運河にも棲息する。
レノは運河に近付かないよう内陸側に寄りながら、群衆の中を進んだ。人々の間をすり抜け、密集地帯を抜ける。そこから、再び走った。
疲れきっている筈だが、足は馴鹿のように前へ進んだ。
夕日が眩しい。
レノは目を細めて走った。
▲ゼルノー市の地図
地図の詳細は「野茨の環シリーズ 設定資料」でご覧ください。




