2146.東漁協の窓口
薬師アウェッラーナは、火炎水母用の毒消しを携え、クレーヴェル漁協東支部を訪れた。
光福三号の船長である兄アビエースと、首都にある程度の土地勘があるパドールリクも同行する。
首都の市街地は、東へ向かって口を開けたクレーヴェル港をぐるりと取り囲む形で広がる。地図で見た限り、湾の水域だけでも、ゼルノー市より大きかった。
……こんな広かったのね。
光福三号は小さな漁船だ。
兄アビエースが話を聞きに行った四番目のウハー鮮魚店によると、急に取引を打切られて仕入れが滞り、迷惑したと言う。
開戦前のヘロディウスたちなら、そんな無責任なコトは決してしなかった。
アウェッラーナの中で、従兄一家の思い出と、兄や魚屋から聞いた情報が繋がらない。
漁協の事務所へ向かう足が震えた。
兄アビエースは今朝から口数が少なく、折角下がって来た血圧が、昨日と比べて三十も高かった。ヘロディウスたちと会えたとしても、兄の血圧と血管が心配だ。
看板の文字がはっきり見えて来るにつれ、二人の足が鈍くなる。パドールリクは時々振り向いて歩調を緩め、緑髪の兄妹が追い付くのを待ってくれた。
今朝の漁はもう終わり、岸壁が漁船で埋まる。
開戦前から、地元の船以外を係留する余裕があったか、わからない。
風の寄せた波が舷や岸壁を洗う音は、ネーニア島もネモラリス島も変わらないと知った。
アウェッラーナは、不安に圧し潰されて止まりそうな足を叱咤して前へ進む。
震える足で、クレーヴェル漁協東支部の門を潜った。薄い胸の奥で、心臓が別の生き物のように暴れる。兄と繋いだ掌がじっとり汗ばんだ。
開け放たれた扉から建物に入る。
鉄筋コンクリートの二階建て事務所は、平和な頃のゼルノー漁協とよく似た雰囲気だ。懐かしい空気感に触発され、在りし日のゼルノー漁港の風景が脈絡なく脳裡を過った。
あの場所は、星の道義勇軍のテロと、アーテル・ラニスタ連合軍の空襲で跡形もなく焼け、現在も立入制限が続く。
兄アビエースが、カウンター越しに声を掛けようとしたが、掠れて言葉にならなかった。アウェッラーナと繋いだ手に力が籠る。
パドールリクが小さく会釈し、目顔で聞く。兄アビエースは強張った唇を引き結び、辛うじて顎を引いた。
頷き返したパドールリクが、奥の机で伝票を捲る若い事務員に声を掛けた。
「お忙しいところ、恐れ入ります。昨日、お電話差し上げました光福三号の関係者です」
緑髪の事務員がこちらを向く。
兄は更に力を籠めてアウェッラーナの手を握り、背筋を伸ばして顔を上げた。
「ゼルノー漁協所属、光福三号の船長アビエースです。空襲で生き別れになった親戚がこちらでお世話になっていると、地元の方からお伺いしました。光福三号の乗組員ヘロディウス、ナウタ、ファウトール、イリスが今、どこに居るか、ご存知ありませんか?」
堰を切ったように言い、事務員を見詰める。
「あ、あの、ウハー鮮魚店で、去年の春頃までは、取引していたそうなんですけど、急に連絡取れなくなったって」
アウェッラーナは声の震えを抑えられなかった。
緑髪に白髪が混じる別の事務員が、カウンターに出て来た。
「あの電話に出たおばちゃん、今日は休みなんだ。伝言は預かってるけど」
「教えて下さい。お願いします」
「昨日の夕方、それと今朝は俺も、ウチの連中に聞いてみたけど、みんな『そう言えば最近、見てないな』って」
「あ、あの、これ、火炎水母の毒消しです。従兄たちがお世話になったので、少しですが、どうぞ」
薬師アウェッラーナは、肩掛け鞄からプラスチックの瓶を三本掴み取ってカウンターに置いた。手が震えて立たせられず、別々の方向へ転がる。
兄とパドールリク、年配の事務員が、一本ずつ捕まえた。
「漁業権の支払い記録、何月分が最後ですか?」
兄が落ち着きを取り戻した声で聞きながら、事務員の前に瓶を置く。
事務員は両手に一本ずつ瓶を持ち、戸口から射す日の光に透かし見た。火炎水母用の毒消しは、薄赤い水薬だ。
アウェッラーナは、襟の中から薬師の証【思考する梟】学派の徽章を引っ張り出した。
「私が作りました」
事務員が頷き、背後の机に瓶を置いて答える。
「避難して来た船の分は、解放軍が一括で立替えてくれるから、ウチじゃ隻数しかわからないんだ」
「えッ? 名簿を作成していないのですか?」
パドールリクが驚いた顔で、事務員の前に毒消しの瓶を置く。
「もし、光福三号が仮設の住民用に獲るボランティアに合流してたら、解放軍と慈善団体、両方が名簿作ってる筈だ。どっちか聞きに行くといい」
「つい最近、やっとクレーヴェルに来られたばかりで、右も左もわからないんです。ここも、地図を買って地元の人にも教えてもらって、どうにか来られたんで、その、慈善団体のお名前と事務所を教えていただけませんか?」
兄アビエースは遠慮がちに聞いた。
流石にネミュス解放軍、つまり、ウヌク・エルハイア将軍の自宅へ問合せに行くのは無理だ。
若い事務員が救急箱を持ってきて、毒消し三本を仕舞う。ちらりと見えた箱は、中がスカスカだ。
年配の事務員がメモ用紙に書いて寄越した。
「東支部の漁場でボランティア仕切ってんのは、朝霧通神殿信徒会だ。操業場所は、こっちで指定したとこだけで、漁協のモンと搗ち合わないようにしてるんだ。詳しいコトはあっちで聞いてくれ」
朝霧通神殿は、首都入りしてすぐ、レノ店長とジョールチがウシェールィエ神官に会いに行ったところだ。
三人は何度も礼を言って、漁協の事務所を後にした。




