2143.てんやわんや
昼休みになったが、難民キャンプ第九区画診療所では、「昼食」の時間帯にゆっくり一時間休むことなどできない。
常勤医療者六名の内、二名は科学の歯科医と理学療法士だ。口腔ケアと寝たきり予防、リハビリなどで区画内の小屋を巡回する。
診療所は、科学の耳鼻科医テコーマの他、看護師は科学一名、魔法使い二名で、難民有志の呪歌【癒しの風】の歌い手、魔法使いの衛生管理者と病人食の調理担当者で運営する。
アミトスチグマの医師会や薬師・薬剤師会、看護師協会などから派遣される医療ボランティアと呪医セプテントリオーは、それぞれ別の区画を一日一カ所担当し、三十五日で一巡する。【家守る鸛】学派の産科呪医は、難民キャンプ在住の医療者で唯一人、巡回診療だ。産科医が一人しか居ない為、妊婦の居る区画を巡る。
一般のボランティアも診療所で、消毒、洗濯、清掃、治療補助、入院患者の食事補助などをするが、日によって来られる人数にはバラつきがあった。
今は夏休みで大学生も来るが、何もない平日は、人数が大幅に減る。
経済制裁の影響もあり、ピーク時の三分の一以下にまで落ち込んだ。
今日は比較的多くの外部ボランティアが来たが、天気がいいせいで熱中症患者が増え、全く人手が足りなかった。
「それではお先に」
外科の患者が途切れた頃合いを見計らい、呪医セプテントリオーは、戸を細く開けて診療所の台所に身を滑り込ませた。香りのキツい野菜を食べた人物の便のような異臭が鼻を突き、思わず顔を顰める。
呪医が口を開く前に緑髪のボランティアが申し訳なさそうに説明した。
「すみません。臭いですよね。さっきパエデリアの根と蔓を切り離して洗ってたんです」
「そうでしたか。お疲れ様です」
食卓の横に置かれた段ボール箱は、節くれだった芋のようなものが山盛りだ。ボランティアが箱を抱え、呪医は台所の戸を手で押さえた。
「じゃ、干しに行ってきます」
「お昼はどうされるんです?」
「持って来たんで、集会所で食べます」
「お疲れ様でーす」
「有難うございましたって言うか、もうこんな時間?」
「早ッ!」
薬学部の学生二人が、薬草や油瓶などが乱雑に乗った食卓を片付け始める。調理台も、処理途中の素材と上皿天秤や乳鉢などの器具が満載だ。支援者マリャーナから預かった昼食を出す場所がない。
呪医セプテントリオーも、傷薬の容器を段ボール箱に詰めるのを手伝った。
居室へ続く廊下にまで、薬草などを詰めた四十五リットルのゴミ袋が幾つも積み重なる。
「散らかっててすみませーん」
「さっきもらった分、あの人にパエデリアと虫綿付きの傷薬だけ、仕分けと下処理してもらったけど、他はまだ全然なんです」
「あぁ、いえ……急にたくさん渡されて、大変ですよね」
三人でせっせと傷薬を箱詰めして食卓をあける。
「お待たせしました! 遅くなってすみません」
「お昼ごはん、先に外科病棟で配ってたんです」
「ここだと【無尽袋】から出す場所がないんで」
診察室からボランティアたちの声が聞こえた。
今日と明日は、魔法薬作りで台所を使う為、入院患者用の昼食と夕飯は、神殿ボランティアが街で作って運んでくれることになったのだ。
病人食の調理担当者を休ませる為でもある。
「傷薬用の油と容れ物は昨日までに用意してくれてたんですけど」
「追加の分、絶対足りないですよ、これ」
「追加の分は、同定と仕分けだけで充分だそうですよ」
「えっ……でも」
女子学生が、廊下を塞ぐゴミ袋の山に目を遣った。
呪医セプテントリオーは、薬師アウェッラーナが手際よく大量の魔法薬を作る姿を思い返して言う。
「片付けながら作業すれば、場所を広く使えて効率よく動けますよ」
「そ、そうですよね。教授にもしょっちゅう言われるんですけど、つい後回しになっちゃって」
男子学生が頭を掻いて苦笑する。
「お二人だけでは手が足りなければ、住民の方に片付けだけでも手伝ってもらうといいですよ」
「えッ? いいんですか?」
「大抵の区画には、巡回の薬師さんが来られた時、お手伝いする人が何人も居ますから、呼んでもらうといいですよ」
「えっ? そう言う人、居るんですね」
学生二人が驚いた顔で診察室を窺う。
呪医セプテントリオーは内心、首を捻った。
……何故、今日に限って誰も居ないんだ?
食卓の片付けを終え、預かってきた【無尽袋】のひとつを逆さにして振った。いつもの【保冷】が掛かった白い紙箱が転がり出る。
もう一袋は夕飯用で、今朝来てすぐテコーマ医師に渡した。
「一人一箱であなた方の分もあります。遠慮なさら」
「呪医! 急患です!」
台所の戸が勢いよく開き、自警団員が叫んだ。血の臭いがパエデリアの悪臭と混じり合う。
「食べられる時にしっかり食事を摂るのも、仕事の内だと思って下さい」
学生二人に言い置いて、呪医セプテントリオーは診察室へ戻った。
手製の槍を手にした自警団員が早口に状況を伝える。
「薬草園に熊が出て、三人ひっかかれたんです。熊は【操水】で血を沸かして仕留めたんですけどみんな酷くて」
「三人? 後の二人は?」
診察台に横たえられて呻き声を上げるのは、男性一人だ。
「力ある民、俺しか居なかったんで、今から連れてきます!」
自警団の青年は、言いながら診療所を飛び出した。
どうやら不意討ちだったらしい。防禦創がなく、右側頭部から左頬に掛けて爪で抉られ、千切れかけた右耳が辛うじて残る。
目に爪が掛からなかったのは幸運だった。
神殿ボランティアから滅菌処理済みの水塊を受取り、【癒しの水】を掛ける。傷付いた身体を魔力を帯びた水が這い、瞬く間に傷を修復する。
「あッ……!」
キレイに治った顔には、見覚えがあった。
順番待ちの患者が不安な声を出す。
「何か、マズいんですか?」
「あ、いえ。つい先程、話題に出した人だったので」
「噂をすれば何とやらですか。何の話だったんです?」
当の患者が、自分で身を起こして呪医に聞いた。
☆【家守る鸛】学派の産科呪医……「1589.最初から難民」参照
☆経済制裁の影響……「1974.消毒用の酒精」参照
☆パエデリア……「391.孤独な物思い」参照




