2114.朝霧通の神殿
神殿がある朝霧通は、トラックを停めた量販店から四街区分離れた所だ。
見える範囲の道路には壊れた部分がなく、瓦礫も見当たらない。
所々に更地はあるが、駐輪場として利用中の土地もあれば、不動産屋の看板がポツンと立つだけの所や、夏草が生い茂る荒れ地もあった。
ネモラリス政府軍とネミュス解放軍の戦闘や、星の標による爆弾テロに巻き込まれたせいか、首都クレーヴェルを去る資金作りに家と土地を売り払った為か、更地の理由は定かでない。
道行く人は、平和な頃のゼルノー市より多かった。
陸の民は少ないが、黒髪のジョールチと茶髪のレノが、じろじろ見られる程ではない。
すれ違った陸の民で、呪文や呪印のない服装の者は居なかった。
八月半ばの暑さのせいもあるが、レノのように魔法の品で対策しなければ、夏の陽射し以上にネミュス解放軍の目が厳しいからかもしれない。
朝霧通は、首都クレーヴェル東地区の内陸部だ。建ち並ぶビルや家々が視界を遮り、ラキュス湖は全く見えない。
神殿から南へ向かって石造りの立派な水路が走る。水路の石積みにも、歩道の敷石と同じ【魔除け】などの呪文や呪印が刻んであった。流れる水は澄んでキレイだが、水草は茂らず魚も居ない。
ここのパニセア・ユニ・フローラ神殿は、ゼルノー市の神殿より構えが大きかった。広い前庭には色とりどりの花が咲き、大勢の参拝者の目を楽しませる。
一番広い花壇は、濃い緑の葉が茂って、まだ花がない。
近付いてよく見ると、レノもよく知る青ヒナギクの葉だ。秋になれば辺り一面、湖の女神パニセア・ユニ・フローラを象徴する青い花で満たされるだろう。
子供連れで参拝に訪れる者が多く、様々な髪色をした陸の民も見える。
到底、二年近く前に激闘が繰り広げられた街とは思えない平和な光景だ。
アナウンサーのジョールチは、前庭を素通りして神殿の石段を上る。
レノは花を見るフリで葬儀屋アゴーニの姿を捜した。緑髪のおじさんは、自分の背丈より高い所にある大輪のヒマワリを見上げて、他人のフリをしてくれる。
レノは安心して石段を駆け上がり、ジョールチに追いついた。
入口に盛られた【魔力の水晶】をひとつ手に取る。
ジョールチがこっそり受取り、魔力を満たして返してくれた。彼はずっと、放送局を脱出した時の背広姿だ。裏に呪文と呪印があり、見た目の暑苦しさに反して、本人は涼しい顔で着こなす。
レノがクルィーロと行った王都ラクリマリスの神殿では、参拝者で通路がギチギチに詰まり、神官と警備員が何人も立って誘導に腐心した。
この神殿も参拝者は多いが、通路が詰まる程ではない。
レノとジョールチは、絶えず水音が聞こえる通路をすんなり抜け、祭壇の広間に入れた。
ラキュス湖を模した水場と岩山の神スツラーシを表す岩、主神フラクシヌスとの繋がりを示す樹木。この神殿に植わるのは、新しい時代の樫ではなく、昔ながらの秦皮だ。
そして、もうひとつ。
水場の中央に見慣れない台座があった。形は入口にある【魔力の水晶】を持った台座に似るが、その上には淡い光を放つ青い宝石が浮く。
宙に浮いた青い宝石からは、家庭用の蛇口を全開にしたくらいの水が流れ、台座に当たって噴水のように水場へ降り注ぐ。
ジョールチも初めて目にしたらしく、眼鏡の奥で黒い瞳を大きく見開いて青い宝石を見詰める。
……いや、それより、神官と話すんだよな。
祭壇の広間の壁際で、若い女性神官が老夫婦と何事か話す。
水場の前には、中年の男性神官が立って、参拝客たちと祈りの詞を唱和する。
「湖上に雲立ち雨注ぎ、大地を潤す。
木々は緑に麦実り、地を巡る河は湖へと還る。
すべて ひとしい ひとつの水よ。
身の内に水抱く者みな、日の輪の下にすべて ひとしい 水の同胞。
水の命、水の加護、水が結ぶ全ての縁。
我らすべて ひとしい ひとつの水の子。
水の縁巡り、守り給え、幸い給え」
ウシェールィエは、男女どちらでも通用する呼称だ。
ジョールチはさっき、旧知の神官を「彼」と言った。
……じゃあ、こっちのおじさん?
神官は二人とも緑髪だ。
もしかすると、他にも居るかもしれず、この男性がウシェールィエではないかもしれない。
先に祈りを捧げた者が広間を出て、レノたちはたちは水場の正面に出た。間近に立つと、台座に当たった細かい水飛沫が顔に掛かる。
中年の男性神官は祈りの詞を唱えかけたが、口を半開きにして動きを止めた。ひとつ咳払いすると、何事もなかったかのように参拝者と祈りの詞を唱和する。
レノも、湖の女神パニセア・ユニ・フローラに祈りを捧げ、【魔力の水晶】を水場に沈めた。
母の無事な姿と再会できるよう、水の縁が一日も早く繋がることを願う。
「ちょっとこちらへ」
入替る人の流れの中で、神官がジョールチの肩を軽く叩いた。
国営放送のアナウンサーが無言で頷くと、男性神官は女性神官に目配せして交代した。
本殿を出て、集会所の小会議室へ案内される。
廊下に誰も居ないのを確認して、ジョールチがレノを紹介した。
「連れです」
「こんにちは」
レノが挨拶すると、中年の男性神官ウシェールィエは、頭のてっぺんから爪先まで無遠慮に眺め、二人を小会議室に招じ入れた。
「ジョールチさん、ご無事で何よりです。噂は何度か耳に入りましたが、半信半疑だったのですよ」
緑髪の神官が、黒髪のアナウンサーに微笑を向ける。
ジョールチは旧知の無事を喜ぶ言葉に続けて聞いた。
「どんな噂ですか?」
「あなたが移動放送車でニュースを読んでいると言う噂で、参拝者があなたの声を聞いたと言う場所がバラバラだったので、そんなまさかと思っていたのですよ」
「そうですか」
「本局に復帰なさるのですか? 今はネミュス解放軍の管理下にありますが、お望みでしたら、仲介しますよ」
ウシェールィエ神官は、レノそっちのけでジョールチだけを見て話した。
☆青ヒナギク……「572.別れ難い人々」参照
☆放送局を脱出した時の背広姿……「600.放送局の占拠」→「660.ワゴンを移動」~「663.ない智恵絞る」参照
☆入口に盛られた【魔力の水晶】……「1308.水のはらから」参照
☆レノがクルィーロと行った王都ラクリマリスの神殿……「1275.こんな場所で」「1276.腹の探り合い」、「1307.すべて等しい」~「1309.魔力を捧げる」「1311.はぐれた少年」参照
☆旧知の神官……「1630.首都での予定」参照




