0214.老いた姉と弟
ラクエウス議員が、姉の待つ家に帰ったのは、日没後すぐだ。
夜になれば雑妖や魔物が活気付く。
東教区一帯に死の気配が満ちる今、夜の外出はこれまで以上に危険を増した。
ラクエウス議員は、強力なライトを持って送ってくれた支持者たちに労いの言葉を掛け、そっと仕立屋の扉を閉めた。
「おかえり」
「ただいま。姉さん、無事でよかった」
報告は受けたが、ラクエウス議員は独り暮らしの姉の無事な姿に頬を緩めた。
クフシーンカは、弟をいつもの笑顔で迎える。
「ごはんは?」
「そう言えば、まだだったよ」
「やっぱり。そう思って、用意しといたわ」
スープと堅パンだけの質素な夕飯を摂りながら、お互いの近況を話す。
「……過ぎたことを悔やんだって仕方ないよ。それより、これからどうするか考えなくちゃな」
弟が、食器を片付ける姉の背に声を掛ける。クフシーンカは、食後の片付けを終え、香草茶を淹れて食卓に戻るまで無言で通した。
「……そうね」
「うん。昔みたいに信仰や魔力のあるなしに関係なく、俺たちとフリザンテーマさんみたいにみんなで仲良くできれば、それが一番なんだけど……」
「今は難しいでしょうね」
クフシーンカが、弟の前に茶器を置きながら言う。
弟は香気を胸いっぱいに吸い込んで言葉を発した。
「三十年前は、お互い関わらなければ、平和に暮らせると思った。だから、国を分ける案に賛成した」
そこで一旦切った弟は、クフシーンカが小さく頷くのを見て、きっぱり言った。
「でも、それは間違いだったと思う」
「そうね。ラニスタはともかく、アーテルの人は、何を考えてるのかしらね」
二人きりの部屋で、国会議員の顔を捨て、弟として、姉に胸の内を明かす。
クフシーンカは、幼い頃と変わりなく弟の気持ちを受け留め、先を促した。
「アーテルに移住した人にも、こっちの島に知り合いや友達が居るでしょうに」
「それなんだよ。ラクリマリスだってそうだ。王国の駐在大使と会って話したんだけど、どっちつかずの態度を崩さなかった。何か知ってると思うんだけどなぁ」
弟が皺だらけの両手で茶器を包み、心を鎮める茶の香気を味わう。弟の気持ちが落ち着くのを待って、クフシーンカは口を開いた。
「国会議員の先生はどうしたいの? リストヴァー自治区が、アーテルの属領になるのがいいの? それとも、小さいけどキルクルス教国家として独立した方がいい?」
先程、弟には改めて、自治区の有力者たちの派閥と、星の標と星の道義勇軍の方針の違いを説明した。
自治区民は決して一枚岩ではない。
次に選挙を行えば、候補が乱立して票が割れるだろう。
過半数にも満たない票で国政に人を送れば、大きな禍根となり、自治区内でも新たな争いを産むことになる。
「姉さん、今から言うこと……怒らないで聞いてくれるかい?」
「もう大人なんだから、ハルパトールの決断に怒る訳ないでしょ」
クフシーンカは、弟を国が分かれる前の呼称で呼んだ。
今の呼称「ラクエウス」は「罠」を意味する。
自治区で国会議員になってから、誰からともなく呼ばれるようになった。
弟は、幼い頃から音楽が好きで、竪琴が上手かった。
十歳の頃に才能を見出され、家族の許を離れて寄宿学校に編入した。
家族が面会に行くと、とても喜んだ。年相応に淋しかったろうが、それ以上に楽しそうに瞳を輝かせ、学校生活を語った。
音楽を仲立ちに人種や魔力の有無、信仰とは無関係に結ばれた友情。厳しくもあたたかい先生方は、音楽だけでなく、信仰を越えて「人の道」を教えてくれたと言う。
内戦前までは、竪琴奏者として、ラキュス・ラクリマリス交響楽団の一員として働いた。今も昔も敬虔なキルクルス教徒だが、原曲が呪歌でも拒否せず、ひとつの音楽として誠実に演奏した。
ハルパトールの友人の多くは、半世紀の内乱中に失われた。
内戦後、自治区に移住してからは、音楽家の道を捨て、竪琴奏者時代に築いた人脈を活かして、政治活動に邁進した。
ハルパトールの妻子は内戦で失われ、二度と同じ悲しみを味わう者がないよう、議員として精力的に活動し続けた。
「所詮、力なき民の俺が奏でる音楽には、何の力もないんだ。あの歌だって、とうとう完成しなかったじゃないか」
国会議員になったばかりの頃、弟はクフシーンカと二人きりになると、よくそう言って自嘲した。
バラック街の住人、団地地区や農地を持つ富裕層を問わず、自治区民の信任が厚く、殆ど切れ目なく「リストヴァー自治区選出の国会議員」であり続けた。
力なき民の姉弟は、長命人種ではない。フリザンテーマの姉カリンドゥラとは違い、残された時間が限られる。
弟は顔を上げ、姉の眼をまっすぐ見て言った。
「姉さん、俺は三つの国をひとつに戻したい。この願いが叶うんなら、老い先短いこんな命、惜しくなんてない」
「……そう。それも、ひとつの答えね」
クフシーンカは、穏やかな湖面のような微笑で、弟の決意を受け留める。
罠と呼ばれる国会議員は、静かに言った。
「だから、姉さん、持ってる情報を全部、教えて欲しい。俺を気遣って、バラックの放火みたいに内緒にしないでくれ」
クフシーンカは頷き、この一カ月間で得た各派閥の動きを語り始めた。




