2089.大森林の情報
レノが小麦一袋を傷薬と交換する。
スクートゥム商人が、匂いを嗅いでイイ笑顔になった。
「おっ、これはかなり上物の傷薬だね。お兄さんが作ったのかい?」
「いえ、一緒に来た薬師さんです。手分けして色々買いに回って……あっ、頼まれ物、交換の値段、控えないと」
ポケットから手帳を出して急いで控える。
「そうなんだ? かなり腕のいい人なんだね」
「以前、ラクリマリスの元貴族に頼まれて、大量に作ってましたからね」
「えッ? 貴族のお抱え薬師さん?」
ひょろりと背の高いスクートゥム商人が、石畳に敷いた絨緞から立ち上がって辺りを見回す。
午前十時を過ぎ、カルダフストヴォー市の広場には、かなり人が増えた。首から【思考する梟】学派の徽章を提げる人物がそこかしこで視界に入る。
「空襲でラクリマリス領に避難した時、しばらく居候させてもらったんですよ」
「ん? 今はその貴族の所に居ないんだ?」
「生き別れの家族を捜してるんです」
スクートゥム王国から来た乾物屋は、一頻り気の毒がってから言った。
「これだけの腕がありゃ、どこでも引く手数多だろうに……この市の決まりで値引きはできないんだけど、オマケは付けられるから」
「えっ? いただいていいんですか?」
「薬師さんに渡してくれよな。それと、オマケも決まりがあって、【軽量】の袋か容量が小さい【無尽袋】だけなんだけど」
一度にたくさん買わせる為だろう。
レノは【軽量】の袋を受取り、早速、脱穀済みの小麦二十キロ入りの麻袋を入れた。嵩は減らず、これだけでいっぱいになったが、重さは猫一匹分くらいにしか感じない。
「俺は今月の二十五日にも来るから、隣近所の人にもよろしく言っといて」
「はい。お伝えします。有難うございました」
デレヴィーナ市の職人たちは、それぞれ気になる露店を見に行ってバラバラだ。彼らは湖の民で、帰りには困らない。出発前に現地解散だと伝えてある。
「小麦、思ったより安かったなぁ」
「まだ粉にしてないからじゃないか?」
「それにしたって、去年、ギアツィントとかで見たのよりずっと安いよ」
レノが、食パン一斤が元の五十倍近くにまで暴騰した件を語ると、クルィーロは遠い目になった。
日が高くなってきて、八月の太陽が肌を焼く。
魔法使いたちは、服の【耐暑】で守られて平気な顔だが、力なき民のレノは汗だくだ。蔓草細工の帽子に付けた【魔力の水晶】が空になって【耐暑】の【護りのリボン】が失効したのだ。
食べ物の屋台に寄って、薄甘いお茶を飲む。少し汗が引いた。
どうやら、飲食の屋台は地元の店らしい。簡易地図の看板を傍らに立て「お食事はこちらへ」と誘導する。
レノとクルィーロは街路樹の木陰に入った。
「魔力補充するよ」
「ありがと」
蔓草細工の帽子から【魔力の水晶】を外して渡し、軽くなった帽子で扇ぐ。
「大丈夫か?」
「このくらいなら、まだ何とか」
幼馴染の気遣いが心に沁みる。
これだけ暑くても、木陰には人が居ない。
客はどんどん露店を回り、スクートゥム王国から来た行商人も、屋台の店番をするランテルナ島民も、みんな平気な顔だ。
「そうかい。難民キャンプは材料があっても作れないのか」
「まとめて売りに出してくれたら、買取るけどね」
「あっちの人、ここまで来られない? 次、二十五日だけど」
「うーん……魔法薬を作れる人も、目利きできる人も、忙し過ぎて無理だと思います」
レノは、薬師アウェッラーナの困った声で振り向いた。
魔法薬の素材屋らしい。近くの露店から商人が寄って来て、難民キャンプのことをあれこれ質問する。
「難民キャンプって、アミトスチグマのどこにあるんです?」
「大森林の中です」
スクートゥム商人たちは一様に驚いた。
「えッ? あそこ、住めるんですか?」
「魔獣の主、居ませんでした?」
スクートゥム王国には、アミトスチグマ王国の情報があまり届かないらしい。
薬師アウェッラーナは素材屋にひとつひとつ丁寧に応じる。
「森の主は、何百年も前にやっつけて、もう居ないそうです」
だが、多くのアミトスチグマ人は現在も、大森林を恐れて近付かない。樵や狩人は要の木を恐れ敬い、開発に反対する者が多かった。
王国政府としては、それでも開発を進めたいらしい。
難民キャンプは、大森林から木材を伐り出して丸木小屋を建て、土地を拓きながら作られた。
今夏からアミトスチグマ王国の産官学合同調査隊が、難民キャンプ最奥に拠点を設け、本格的な調査を開始。魔獣狩りなども行って、資源や植生、動物や魔獣の分布なども詳細に調べる。
「要の木?」
「精霊が宿る樹木です。木に気に入られた人が何人も、心を異界に連れてゆかれて大変なんだそうです」
「取り返せないんですか?」
デレヴィーナ市の薬師が眉を顰める。
「一人だけ【渡る雁金】学派の学者さんが居て、その人が精霊と交渉して、返してもらえる時もあるけど無理な時もあって、とにかく大変だそうです」
「アミトスチグマの王様は、そんなとこに難民を住まわせてんのかい?」
「四十万人以上居ますから、みんなを街で受容れるのは難しいと思いますよ」
「あー……」
湖西地方から来た商人たちが、すっかりわかった顔でネモラリス人たちに同情を向けた。
「ところで、大森林で採れる素材って、どんなものがあるんです?」
沈んだ空気が、その質問で俄かに活気を取り戻した。
薬師アウェッラーナが指折り数え、マリャーナ宅と第二十九診療所で処理した素材を挙げてゆく。デレヴィーナ市の同業者とスクートゥム王国の素材屋は、熱心にメモを取った。
「そんなに色々あるなら、現地で処理しきれない分、買取りに行ってもよさそうですね」
「どんな魔獣が出るんです?」
「私がお薬を作りに行った日に出たのは、樹棘蜥蜴です」
「樹棘蜥蜴が……他にはご存知ありませんか?」
「知合いの【青き片翼】学派の呪医は、患者さんから色々聞いたと思います」
「その呪医、難民キャンプに住んでるの?」
「通いのボランティアですけど、忙しくて話す時間は取れないと思います」
「他に詳しそうな人にお心当たりありませんか?」
薬師アウェッラーナは、少し考えて答えた。
「ネモラリスの駐在武官……えっと、アミトスチグマ王国に駐在する外交官? 私が行った日、その人が樹棘蜥蜴をやっつけてくれたんで、夏の都にあるネモラリス大使館に聞けば、教えてくれるかもしれません」
「大使館か……ちょっと敷居が高いな」
「他に心当たりありませんか?」
「パテンス神殿信徒会の人たちも、色々ご存知かもしれません」
「有難うございます。教団を通じて問合せてみます」
レノは、DJレーフとラゾールニクが「経済が動く」と言った意味をようやく実感した。
☆食パン一斤が元の五十倍近くにまで暴騰した件……「780.会社のその後」参照
☆魔獣の主/森の主……「701.異国の暮らし」参照
☆樵や狩人は要の木を恐れ敬い……「1184.初対面の旧知」「1185.変わる失業率」、樵や狩人「1593.意識的に視る」「1594.精神汚染の害」参照
☆アミトスチグマ王国の産官学合同調査隊……「1921.産官学調査隊」~「1923.調査隊の目的」「2025.研修の休養日」参照
☆一人だけ【渡る雁金】学派(中略)精霊と交渉……「1610.食害された畑」~「1614.まとめる情報」参照
☆マリャーナ宅と第二十九診療所で処理した素材
マリャーナ宅……「1997.報道されない」「1998.擂り潰す素材」参照
第二十九診療所……「2073.出られない間」~「2075.待機中の不安」参照
☆私がお薬を作りに行った日……「2075.待機中の不安」参照
☆DJレーフとラゾールニクが「経済が動く」と言った……「2087.経済を動かす」参照




