0213.老婦人の誤算
リストヴァー自治区唯一の仕立屋にも、ラクエウス議員の帰還が伝えられた。
店長のクフシーンカは、ゆったりと微笑を浮かべ、店に駆け込んで知らせてくれた少年を労った。
「温かいお茶でもどう?」
「ありがとうございます。でも、他にも報せに行くんで」
「そう。大変ね。気を付けてね」
施錠して一人になると、クフシーンカは中庭に出て天を仰いだ。
三月の空は薄青く、刷毛で刷いたような薄い雲が横たわる。
弟が無事に戻ったのは喜ばしいことだ。
キルクルス教徒故にアーテル共和国の同類として、フラクシヌス教徒の暴漢に襲われることなく、開戦後の現在も自治区の為に働ける。
今頃はきっと、庁舎で区長らと会談中だろう。
区長は火災の被害状況を語り、団地地区の有力者だけで何度も協議を重ねた復興計画を伝え、中央政府に資金調達を依頼するだろう。
自らの手でバラック街に火を放ち、貧しい人々を生きながら焼き払った。
いや、彼自身は放火の実行犯ではない。
キルクルス教原理主義団体「星の標」の構成員を焚きつけ、直接には手を汚さなかったのだ。
星の標は過激な原理主義団体で、信仰の為ならテロ行為をも厭わない。
世界に目を向ければ、星の標をテロ組織と認定し、監視下に置く国もある。星の標の機関誌では、そうした政府対応を宗教弾圧として糾弾した。
手口は自爆テロを含むが、対象を魔法使いに絞る。不定期且つ単発で、力ある民に恐怖を与える為に行われる。
星の道義勇軍は、信仰について比較的緩やかで、元は穏健な信者団体だった。
構成員は貧しい信者が多い。
自治区の生活が向上せず、困窮が継続するに従い、少しずつ過激化が進んだ。
そしてついに、先月のテロに発展した。
元々、生命以外に失うもののない構成員が多いせいか、ゼルノー市への攻撃は内乱の再来かと思う程に苛烈を極めた。
一口にテロと言っても、「星の標」と「星の道義勇軍」では、目的も手段も全く異なる。
区長をはじめとする富裕層は、星の標の末端構成員を焚きつけ、バラック街を焼き払わせた。
アミエーラは、危うく焼死するところだったが、自力で団地地区へ逃れた。
「魔女が紛れ込み、魔力を持つ子を産み、清浄地である自治区を穢している」
クフシーンカは、彼らがそんなことを吹き込むのを小耳に挟んだ。
もう少し準備を整えて送り出したかったが、予定を早め、本人にリュックを作らせて、針子のアミエーラを自治区から逃がした。
アミエーラの祖母フリザンテーマは、魔女であることを隠し通した。今となっては、親友のクフシーンカと弟以外に知る者はないが、万一を考えてのことだ。
まさか、こんなに早くバラック街全体を無差別に焼き払うとは思いも寄らず、せいぜい「魔女」と断じた女性を個別に捕え、火炙りにする程度だと思った。
針子の父親は、力なき民の男性だ。星の標には危害を加えられまいが、もう望みはないだろう。
今、自治区外がどんな状態か、ラジオの僅かな報道以外では何の情報もない。
酒屋が放った偵察は、未だに戻らない。きっともう、生きてはいないだろう。
区長は、ここが割譲され、アーテル共和国の飛び地となることを望む。単に自治区の面積拡大を望む一派や、拡大した上で独立国家となることを願う人々も居た。
バラック街の住人が、自治区の将来について何を望むか、わからない。
星の道義勇軍は、自治区の拡大と人間らしい暮らしを望んで、ゼルノー市に侵攻した。
バラック街は低地で、雨が降ればすぐ浸水してしまう。
高台に引越せば、浸水に悩まされずに済む。
井戸水は塩分を含むが、力なき民ばかりなので、自力での淡水化は不可能だ。
ミエーチ区まで行けば、淡水の水源が得られる。
自治区の農地だけでは食糧が足りない。
農地ゾーラタ区が手に入れば、冬が来る度に餓死者を出さずに済む。
輸入頼みだが、資金が足りない。
グリャージ区の港が手に入れば、商社に搾取されずに輸出できるようになる。
クフシーンカは、星の道義勇軍についても情報を得ながら、彼らがテロに手を染めずに済むよう、何ら有効な手を打てなかった。
せめてもの慰めにと、アミエーラに余り布や食べ物を与え、近所に配らせた。そんな瑣末な対応では、どうにもならなかった。
アミエーラの身の安全を図り、近所の人々の生活が束の間、潤っただけだ。
クフシーンカは自分の無力を思い知らされた。
大きく息を吐き、胸に溜まった澱みを捨て去って俯く。
……こんなことなら、もっと早く伝えるんだったわ。あの子は、自分の命も顧みず、星の標を止めたでしょう。
迂闊に情報を与えては却って危険だと思い、教えなかったことが多々あった。
……でも、今はもうそんなことも言ってられないわね。
弟が国会議員としてどう動いても、必ずどこかから不満が出る。自治区の有力者たちは、もう一枚岩ではなかった。
それでも今はまだ、ネモラリス島の人権団体が、弟の後ろ盾になってくれる。
戦争が長引き、戦況が悪化すれば、彼らもキルクルス教徒を見捨てるかもしれなかった。
空襲のせいで、自治区から国外のキルクルス教団体に連絡する手段が失われた。元々ひとつの国だったアーテルとも、通信できない。
アーテル共和国は、自治区民を救う為に戦争を始めたらしいが、そんなことをせずとも、アーテル領ランテルナ島の魔法使いと、リストヴァー自治区の住民を交換すれば、穏便に事態を収められた筈だ。子供でも分かる。
何故、ネモラリス共和国にその話を持ち掛けもせず、いきなり戦闘を開始したのか。何か表立って言えない理由があるようだ。
今のクフシーンカが持つ情報では、その後ろ暗い理由が何なのか、皆目見当もつかなかった。
☆団地地区の有力者だけで何度も協議を重ねた復興計画……「0156.復興の青写真」参照
☆バラック街に火を放ち……「0054.自治区の災厄」参照
☆星の標は過激な原理主義団体/テロ行為……「0005.通勤の上り坂」参照
☆元々は穏健な信者団体……「0046.人心が荒れる」参照
☆先月のテロ……「0006.上がる火の手」~「0025.軍の初動対応」参照
☆アミエーラの祖母フリザンテーマは、魔女……「0059.仕立屋の店長」「0090.恵まれた境遇」「0091.魔除けの護符」参照
☆本人にリュックを作らせて(中略)逃がした……「0074.初めての作業」「0080.針子の取り分」「0081.製品引き渡し」参照
☆酒屋が放った偵察……「0082.よくない報せ」~「0086.名前も知らぬ」「0137.国会議員の姉」参照
☆星の道義勇軍は、自治区の面積拡大と人間らしい暮らしを望んで……「0018.警察署の状態」「0019.壁越しの対話」「0043.ただ夢もなく」~「0046.人心が荒れる」参照
☆アミエーラに余り布や食べ物を余分に与え、近所に配らせた……「0027.みのりの計画」「0098.婚礼のリボン」参照
☆ネモラリス島の人権団体が、弟の後ろ盾……「0181.調査団の派遣」参照




