2071.見習いの焦り
「胃薬は二種類用意しましたが、作用が逆なので、間違って処方しないよう、くれぐれも注意して下さい」
「逆に飲んだら、どうなるんですか?」
薬師見習いの少年が、胸ポケットから手帳を出して聞く。
薬師アウェッラーナは、知識を求めて輝く青い瞳に応えた。
「消化不良対応の胃薬には、胃酸の分泌を促す作用があります。これを胃酸過多やストレスなどによる胃痛や胃炎、潰瘍などの患者さんに飲ませると……どうなると思います?」
「えっ? えっと、悪化して胃に穴が開く……とかですか?」
「そうです。胃酸は塩酸ですが、健康な胃は粘膜で保護されるので普段は無事です。でも、胃酸が出過ぎたり、病気やストレスに晒されたりすると、五秒くらいで潰瘍ができるコトがあります」
少年は、真剣な表情で手帳にメモする。
アウェッラーナは、改めて第十八診療所の調剤室を見回した。
魔導書どころか、本が一冊もない。
「お薬の作り方、どうやって習ってるんですか?」
「夜遅くに作業しながら、その作業に関係あるコトを少しずつ教わってます。だから、いつでもメモできるようにボランティアの人がくれた手帳、ポケットに入れてるんです」
「勉強の本、あった方がいいですよね?」
「忙しくて、読む時間ないと思いますよ」
少年が申し訳なさそうに目を伏せる。
……確か、ファーキルさんが応急処置と感染予防、ファイルにまとめてたわね。
集会所での研修教材だが、見習の少年もこの忙しさでは、集会所へ行けないのだろう。
アウェッラーナは、手帳にメモして言った。
「診療所のお手伝いに必要な最低限のコトだけは、きちんと勉強した方がいいと思いますよ。後で仲間に頼んで持って来てもらいますね」
「最低限のコトって、何ですか?」
少年が、プロの薬師に不安な目を向ける。
「感染対策と素人でもできる応急処置です」
「あッ……知らなかったらダメですよね。診療所で邪魔になるだけみたいな」
「診療所のお手伝いをする信徒会の者も、事前に一通り研修を受けましたよ」
パテンス神殿信徒会の女性が、薬草から枯葉を取除きながら言う。
作業机の大皿には虫綿が盛られ、別の皿には水抜き済みの薬草が山盛りだ。
「その研修資料は、ちゃんとした本じゃなくて、一般の人向けの情報を印刷してファイルに綴じただけですから、書込みしても大丈夫ですよ」
「いいんですか?」
「えぇ。アミトスチグマ王国の役所が、医学の勉強をしたコトがない人向けに、わかりやすくまとめて無料公開したものです。ページ数もそんなに多くないので、すぐ読み終わると思いますよ」
少年の肩からほんの少し力が抜けた。
薬師アウェッラーナは、魔法薬の種類と数量を少年と確認し、ひとつひとつ、効果と副作用などの注意点、必要な素材を説明する。
少年は、乾いた砂に水が染み込むような貪欲さで知識を求めた。
「これの下処理って、素人でもできますか?」
「最初の、木の皮をナイフで削って細かくするのはできます」
「最初の? 下処理っていっぱいあるんですか?」
「モノによりますけど、これは細かくした樹皮を【操水】で加熱して成分を煮出しながら、【思考する梟】学派の【抽出】の術で薬効成分を抜き取って、中間素材を作る工程がありますね」
薬師アウェッラーナは、棚からプラ容器をひとつ取った。
「この黄色い粉が、そうやって作った中間素材です。【操水】で熱と魔力の圧を掛けながら、同時に別の術を使って抽出するので、かなり訓練が必要です」
「僕、できるようになるのかな?」
少年のメモを取る手が止まる。
「まだ、修業を始めたばかりですよね?」
「は、はい。今年の六月一日に来たんですけど、手伝うどころか邪魔にしかなってない気がして、早く先生やみんなの役に立ちたいんです」
少年の表情は、真剣を通り越して悲愴だ。
「あなたが今できるコトをするだけで、先生はかなり助かってますよ。例えば、お掃除とか」
「掃除が、ですか?」
たかがそれしきのコトがと不信の眼差しを向けられたが、アウェッラーナは少年の視線を真っ直ぐ受け止めて言った。
「調剤室に埃が溜まっていると、異物混入が発生しやすくなりますし、ダニとかが涌いて、素材を食べられてしまいます。混入した異物がダニの身体や糞なら、お薬を使った人にアレルギーの症状が出る危険性があるんですよ」
「えッ……掃除、そんな重要だったんですか」
少年の青い目が、驚きに見開かれる。
「そうです。掃除は見た目をキレイにする為だけではなく、衛生管理の一環で、重要なお仕事です。大きい病院では、専門の業者が掃除と消毒をするんですよ。簡単な作業もそうです」
「えッ? どうしてですか?」
「薬草の虫綿と枯葉を取って仕分けするの、薬師の先生が一人で全部したら、何日掛かると思いますか?」
「えっ? あッ……!」
少年が、その処理をする二人に目を向ける。
水抜き済みの薬草は大皿に乗らなくなり、レジ籠に移してあった。それも二杯がいっぱいで、三杯目も半分近く埋まる。
作業机の大皿二枚は、虫綿が山盛りだ。
アルキオーネと信徒会の女性は黙々と手を動かす。
干し杏の袋が、いつの間にか机に出してあった。
「私が居た大きい病院でも、こう言う下処理をする専門のパートさんが何人も雇われていました。おカネを払ってでも、してもらいたい仕事です」
「おカネを払う……仕事」
「あなたが、魔法ではできない単純作業を手伝うから、先生は魔法でしかできない作業に集中できるんですよ」
「今日、私たちが手伝って浮いた時間、勉強に回せばいいのよ。さっき聞いた話をノートに清書してまとめるとか」
アルキオーネが立ち上がり、腰を伸ばして言う。
信徒会の女性が、乾燥させた薬草の籠を棚の最下段に置き、机の下を指差した。
「そこの籠四杯分は、枯葉を取っただけで未分類です」
「見本はこれね」
アルキオーネが、水薬用の空容器を花瓶代わりにして、虫綿付きの薬草を挿して机に置く。
「水に挿しておけば、一週間か十日は萎れません。どの途、植物油が足りませんから、焦らず、しっかり確認して仕分けましょう」
アウェッラーナが言うと、少年は何故か泣きそうな顔で頷いた。
☆応急処置と感染予防、ファイルにまとめて……「1599.手に入る教材」参照
☆下処理をする専門のパートさん……「391.孤独な物思い」参照




