0021.パン屋の息子
いつも通り、のどかな午後の筈だった。
昼食用の買物客が一段落し、夕飯の客までまだもう少し時間がある。
「レノ、そろそろ代わっとくれ」
「うん、今行くよ」
母に呼ばれ、息子はエプロンで手を拭きながら厨房を出た。
客が少ない時間でも店は閉められない。昼ご飯は家族で交代。今は、父が二階の台所で食べている。
レノと呼ばれた青年は、母とレジを代わった。
椿屋は、家族経営の小さなパン屋だ。
店はスカラー区の大通りに面していた。ゼルノー市東部のこの道は、貿易港と工業地帯のグリャージ区から、漁港がある北のジェリェーゾ区にかけて南北に走る。
スカラー区は二区の間にある商業地区だ。人通りが多く客の入りがいい。贅沢さえしなければ、一家五人が暮らすには充分、儲かっていた。
妹二人はまだ小学生と中学生、長男のレノは去年、高校を出たばかりだ。
今は店を継ぐ為の修行中。
毎日、香ばしい匂いに包まれて生地を捏ね、形を整えて石釜に入れて焼く。
手伝いは幼い頃からしていたが、本格的な修行となると、父は厳しくなった。
焦がさないように、生焼けで出さないように、食中毒を出さないように、あれこれ細々言われながら、狭い店内で忙しく働く。
本格的な修行を始めて、もうすぐ一年。近頃は任される作業も増えた。
レジに立ち、客が引いた店内を見回す。
「おっと」
入口近くの棚で、値札がひとつ倒れていた。カウンターを出て値札を起こす。
外から悲鳴が聞こえた。
驚きに手が止まる。
更に大きな悲鳴が上がる。
レノは恐る恐る店から顔だけ出し、辺りを見回した。
道行く人々が立ち止まり、南を見て反対方向に駆けだす。
湖の民は【跳躍】でどこかへ跳ぶ者や、流れに逆らって南へ走る者も居た。
レノの濃い茶髪が風に煽られる。
……焦げ臭い……?
ガソリンの臭いもする。
「交通事故?」
南から人が逃げて来る。その背後には、黒煙が上がっていた。それが、どんどん近付いてくる。
腹に響く爆発音。
窓ガラスがビリビリ震えた。
「何だ何だ?」
二階の窓が開き、両親が身を乗り出して外を見る。
黒煙。悲鳴。爆発音。振動。怒号。
レノは、通りを逃げる群に作業着姿の幼馴染を見つけた。
「おいッ! クルィーロ! 何があったんだッ?」
パン屋のレノが叫ぶと、工員クルィーロは駆け寄って叫んだ。
「テロだ! 早くッ!」
「テロ? 火事じゃなくて?」
「爆弾と! 火焔瓶と! 逃げろッ! 銃ッ! テロッ!」
恐怖で思考が回らないらしく、ひとつ年上のクルィーロ青年は、辛うじて単語を並べるだけで、要領を得ない。
「いいから早くッ!」
「あッ! ちょっとッ? 父さんッ! 母さんッ!」
青いツナギ姿の幼馴染に腕を引っ張られ、通りに転がり出た。
自宅兼店舗を見上げる。
窓は無人。両親は階段を駆け下り、店内にいた。
母が布袋にレジの金を回収し、父は売り物のパンをトレーから一気に、廃棄用の大きなビニール袋へ移していた。
レノはクルィーロに手首を掴まれ、半ば引きずられるように走りだす。
「父さんッ! 母さんッ!」
「すぐに行く! 鉄鋼公園で待ってろ!」
父に怒鳴り返され、前を向いて走る。
視界の端で、母が店を飛び出す姿を捉えた。
南北に走る四車線道路は、北へ逃げる車が信号無視してスピードを上げる。反対車線も、標識に逆らって北へ逃げる車列が埋めていた。
鉄鋼公園も、妹たちが通う小中学校も、車道の西……坂の上にある。
パトカーや消防車のサイレンが近付いてきた。
坂を上る西方向の道路も、車列と逃げ惑う人で埋まる。緊急車両は避難の車が邪魔で、現場に近付けないらしい。サイレンが、近付いては遠ざかる。
レノとクルィーロは、歩道を走る人混みに呑まれ、パン屋の夫婦を完全に見失った。
街区の東はラキュス湖。
湖の民ならともかく、力なき陸の民は、そちらへ逃げたが最後、魔物の餌になってしまう。
船に湖の民が同乗していれば、魔物を追い払ってくれるだろうが、この状況で、どれだけ魔法の使えない足手纏いを助けてもらえるのか。
湖の畔で乗船を断られれば、もう逃げ場はない。
それなら、自分の足で逃げた方がまだ望みがあった。だが、北へ向かう車列は途切れず、徒歩では西へ渡れない。
住民は力の限り、北へ走るしかなかった。
爆発音に悲鳴が上がる。
風向きが変わった。黒煙に巻かれ、人々が激しく咳込む。
建物から人が溢れ、北へ行くに従って歩道の混雑が増す。身動きできない人混みの中、人々は必死に北へ向かった。
レノはいつの間にか、クルィーロともはぐれていた。両親は勿論、見えない。
動きが鈍った群衆の中で周囲を見回す。見知った顔はひとつもなかった。
車道の標識を見る。坂を上る東西道の案内板で、隣のジェリェーゾ区まで流されたと知った。
ゼルノー市立中央市民病院には、パンの配達に行ったことがある。その手前の鉄鋼公園は、家族みんながよく知っていた。
西へ渡りたいが、車列が途切れず、徒歩の流れは北への一方通行のままだ。
背後から聞こえる悲鳴が、次第に大きくなる。
身動きもままならなくなった群衆の中、レノは東へ目を向けた。




