2020.守られた伝承
踊る信徒の汗が、夏の陽射しに輝く。
リストヴァー自治区東教区では、ほんの二年前まで、汗だくになっても入浴できない世帯が多かった。特に若い世代にとっては、飲用できる清潔な水で汚れた身体を洗うなど、考えられない暴挙だったのだ。
今は違う。
淡水化プラントが増設され、週に一度とは言え、誰もが入浴して洗濯もできるようになった。
雨が降る度に汚水が浸透したバラック小屋は一軒もなくなり、プレハブの仮設住宅で暮らす。
風雨の心配はなくなったが、熱中症の危険性はまだ解消できないでいた。だが、入浴と洗濯のお陰で皮膚病になる者が激減。そこから感染症に罹って命を奪われる者も滅多に出なくなった。
夏祭の踊りの輪に加わった者たちは、垢染みのない清潔な衣服に身を包み、晴れ晴れとした顔で舞う。
踊りが五巡すると、曲が止んだ。
楽器を奏でる高校生と中心の舞手がタオルで汗を拭き、差し出された飲み物を口にする。
束の間の休息を挟み、十二人の舞手が三組に分かれ、四人でひとつの輪になる。
東教区のウェンツス司祭と老尼僧、大聖堂から派遣されたフェレトルム司祭が、指揮棒を持つ音楽教諭の横に並んだ。
「幸いへ至る道は遠くとも、日輪が明るく照らし道を外れぬ者を厄より守る。道がひととき闇にあろうとも、月と星々の導きを見失わずば、夜明けに至る」
ウェンツス司祭が古い共通語で祈りの詞を発し、一呼吸置いて聖歌を朗々と歌い始めた。
「撓らう灼熱の御手以て、焼き祓え、祓い清めよ……」
ギターが三小節遅れで同じ旋律を辿ると同時に老尼僧も歌う。更に三小節遅れてフルートが続き、次の三小節からトランペットとフェレトルム司祭の歌声が追いかけた。
舞手の第一の輪はウェンツス司祭、第二の輪は老尼僧、第三の輪はフェレトルム司祭の歌声に合わせて踊る。
輪唱するのは、先程より長い別の聖歌だ。
工場長が魔装兵を窺う。視線に気付いた一人が答えた。
「共通語で歌ってますけど、これも呪歌ですね」
「何の魔法なんですか?」
やはりと頷き、工場長が問いを口にする。
「共通語じゃ効果ないんですけど、【退魔】ですよ」
「場の穢れを祓って雑妖とかを退ける術」
……これも、日の光の下では意味がないのね。
クフシーンカは、改めて知らされて虚しさを覚えたが、魔装兵たちは誰一人として、キルクルス教徒の無意味いな魔法の真似事を嘲笑わなかった。聖職者たちの輪唱に合わせ、輪になって踊る舞手たちに真剣な眼差しを注ぐ。
「撓らう灼熱の御手以て、焼き祓え、祓い清めよ。
大逵より来たる水の御手、洗い清めよ、祓い清めよ。
日々に降り積み、心に澱む塵芥、薙ぎ祓え、祓い清めよ。
夜々に降り積み、巷に澱む塵芥、洗い清めよ祓い清めよ。
太虚を往く風よ、日輪翳らす雲を薙ぎ、月を翳らす靄を祓え」
聖職者三人の歌声は、マイクなしでも楽器の音色に負けず、教会の前庭に集まる人々に届く。
一番手のウェンツス司祭が歌い終える。同時に第一の輪が動きを止め、三小節遅れで老尼僧の歌とギターが止み、第二の踊りの輪も止まった。
フルートの音色が止むのを待って、フェレトルム司祭の歌とトランペットが終わる。第三の輪も振りの最後の姿勢で動きを止め、流れるような動きでお辞儀して頭を垂れた。
一呼吸置いて盛大な拍手が前庭を満たす。
聖職者三人と舞手十二人、楽器担当の高校生四十八人が礼拝堂に入った。
魔装兵が拍手を止めて聞く。
「お祭りって、これで終わりなんですか?」
「いえ、この後は病院とか工場とかで同じのをして、三日間続きますよ」
「楽器三種類が一人ずつ、合わせて三人と、舞手一人で回ります」
「今回は楽器が結構多いから、えーっと……十六組かな?」
「司祭様たちが付くのは三組だけですけど、聖歌と踊りはそこの人たちがするんで、人数はちゃんと揃います」
「えっ? 自治区の人って、みんなあれ、謳って踊れるんですか?」
魔装兵が来賓席の面々を見回す。
「一応、学校で音楽の時間に聖歌と縦笛の演奏は習いますし、日曜の礼拝でも歌います」
「踊りは体育の時間に習って、夏至を過ぎた頃から、職場や地区の有志が練習会をするんで、知らない人はまず居ませんね」
「鈍臭くて踊れない奴や、どうしようもない音痴は居るけどよ」
「貧乏過ぎて学校行けなかった連中でも、その気がありゃどっかで習えるようになってんですよ」
工場長たちは、少し誇らしげな顔で説明した。
魔装兵たちが、それぞれの場所へ散ってゆく自治区身を見送りながら頷く。
「歌と踊りが元々何であったか、本来の意味は失われても、正しい形が伝わりさえすれば、すぐ有効な状態で再現できる予備知識があるのは、いいコトだと思います」
「祭衣裳も、ここには材料がないから本来の形で作れないだけですよね?」
魔装兵に問いを向けられ、星道の職人クフシーンカは否定しようがなく頷いた。
「正しい素材で作って【編む葦切】学派の術者が発動の呪文を唱えれば、きちんと機能するようにできてますし」
「旋律と踊り、それに刺繍が、力なき民の間で二千年以上も変更を加えずに伝承されてきたのって、凄いですよ」
「力なき民には、ちゃんとできてるか確認できないのに」
魔装兵が仲間内で感心した顔を見合わせる。
「では何故、歌だけは本来の歌詞が失われたのだと思いますの?」
クフシーンカは、思い切って聞いてみた。
工場長たちが期待と不安が入り混じる顔で答えを待つ。
「力ある言葉だけ書いてあっても、発音がわからなきゃ、ムリじゃないんですかね?」
「俺個人の推測ですけど、キルクルス教が盛んな地域って、魔法使いが少ないから、残った文献から字だけは書き写せても、誰にも聞けないから、発音がわかんなかったんじゃないかなって」
魔装兵たちが自信なさそうに仮説を並べると、工場長たちは合点のいった顔で頷いた。
「あぁ……そっか」
「大昔はレコードとかなかったから」
「仕方なく共通語でってコトなのか」
クフシーンカは嘆息した。
「いつの間にかそれが当たり前になって、キルクルス教団の中で正統な教えとして固定されたせいで、魔法としての本来の姿や効力が失われてしまったのですね」
魔術は悪しき業である――
聖典に記されたこの一節が独り歩きしがちだが、それは三界の魔物を生み出した【深淵の雲雀】学派や、魔法使い同士の地形が変わる程に激しい戦闘に用いられた戦いの魔法だけを指したのだろう。
アルトン・ガザ大陸北部は三界の魔物が作り出された場で、当時は最も荒廃が酷かった地域のひとつだった筈だ。
聖者キルクルス・ラクテウスは恐らく、力なき民でも補助具などがあれば行使可能な護りの術や、作成作業を手伝える魔法の道具などの製法を伝承しようと尽力した。
急速に失われつつあった技術の散逸を防ぐ書物。
それが、キルクルス・ラクテウスが遺した「聖典」だったのだ。
☆淡水化プラントが増設/誰もが入浴して洗濯……「0156.復興の青写真」→「0276.区画整理事業」参照
☆夏至を過ぎた頃から、職場や地区の有志が練習会……「374.四人のお針子」参照
☆アルトン・ガザ大陸北部は三界の魔物が作り出された場……「403.いつ明かすか」参照




