2005.ミシンで負傷
「いッ……!」
何かが引っ掛かったようなくぐもった異音がした。
向かいの席で後輩の針子サロートカが顔を歪め、工業用ミシンが止まる。
「どうしたの?」
針子のアミエーラもミシンを止めて声を掛けたが、サロートカは困った顔をこちらに向けただけで、言葉が出ない。
別の作業机で刺繍する二人も手を止め、アステローペが声を掛けた。
「サロートカちゃん、大丈夫?」
サロートカは石のように動かない。
アミエーラは作業机を回り込んで、サロートカの手許を見た。
厚手のカーテンに血が滲む。サロートカが、涙目でアミエーラを見上げた。
「ど……どうしましょう?」
「どうって……ちょっと我慢してね」
ミシンを手動で動かすハンドルを逆方向にゆっくり回転させ、針を引き上げる。糸を長く引き出して切り、血に染まったカーテンからサロートカの手をそっと動かした。
サロートカが身を固くして息を呑み、横から覗いたアステローペとエレクトラが声を呑む。
ミシン針が彼女の左手中指の爪を横断し、三針縫い込んだのだ。割れた爪から血が溢れる。
アミエーラは、待ち針で慎重に糸を引っ掛け、サロートカの指から引き抜いた。
血染めの糸をゴミ箱に捨て、呪歌【癒しの風】を謳う。
「青い翼 命の蛇呼んで 無限の力 今 ここに来て
翼 はたはたと 癒しの風を送る ひとつの風を
泣かないでね この痛みすぐ癒す 今から心こめ癒すから
命 繕って 苦しみ去って 元気になった 見て ほら……」
難民キャンプで何度か、怪我人を前に謳ったからだろう。自分で思った以上に落ち着いて、しっかり魔力を乗せられた。
呪歌が進むにつれて新しい爪が再生し、割れた爪がその分、剥がれ落ちる。
「……傷ついても この痛み平気なの 言葉に力乗せ癒すから
命 補って 痛みは去って 元に戻った 元気 ほら
痣と火傷 この痛みすぐ消える 魔力を注いで癒すから
体 繕って 痛みを拭い 元に戻った 見て ほら
青い翼 命の蛇呼んで 無限の力 今 ここに来て
翼 はたはたと 癒しの風を送る ひとつの風を」
サロートカの爪は、外見はすっかり治ったように見えるが、アミエーラには内部がどうなったかわからず、自信がなかった。
「多分、治ったと思うけど、アウェッラーナさんに診て」
「私、呼んできます!」
アミエーラに皆まで言わせず、アステローペが作業部屋を飛び出した。
「サロートカさん、手の具合はどうですか?」
「えっと、もう痛くないです」
薬師アウェッラーナは、魔法薬作りを中断して、すぐ来てくれた。
呼びに行ったアステローペだけでなく、別室で薬師の手伝いをするアルキオーネとタイゲタも、心配して様子を見に来た。
「念の為にちょっと診てみますね」
薬師アウェッラーナがサロートカの手を取り、アミエーラの知らない呪文を唱えた。
「大丈夫です。骨に異常ありません。ちゃんと治ってますよ」
緑髪の薬師に微笑を向けられ、サロートカが泣き笑いでアミエーラに何度も礼を言うが、声が震えて言葉にならない。アミエーラは安堵で膝から力が抜け、作業机に手をついて辛うじて身体を支えた。
「爪と……血が付いたのは、この布だけですか?」
薬師アウェッラーナに聞かれ、アミエーラはゴミ箱に飛びついた。
「糸……!」
いつもの癖で普通に捨ててしまった糸屑を慌てて漁る。
幸い元の色は白だ。血に染まった糸はすぐみつかった。
「えーっと、水は……?」
薬師アウェッラーナが作業部屋を見回す
「私、お台所でもらってきます!」
「じゃあ、ついでに香草茶を入れてもらって、休憩にしましょう」
「手伝うわ」
アステローペが頷いて飛び出し、エレクトラが続いた。
言われてみれば、確かに針子の二人は動揺して、今は作業できそうもない。
アミエーラは何か言わなければと思ったが、頭の中が真っ白で言葉がまとまらなかった。動揺と恐怖、安堵と申し訳なさがごちゃ混ぜになり、どんな顔をすればいいやらわからない。
「ねぇ、もう治って大丈夫でしょ? そんな酷かったの?」
「ミシン……爪……縫っ……」
サロートカが、言葉の断片を嗚咽の間からアルキオーネに返す。
タイゲタが、無言で工業用ミシンと血染めの布、サロートカの手に視線を巡らせた。
アステローペとエレクトラが戻り、香草茶の清冽な香りで呪縛が解ける。
薬師アウェッラーナが【操水】で水差しから中身を引き出した。
「ここは処理しておきますから、先にえっと、パソコンのお部屋で休憩してて下さい」
「サロートカちゃん、立てる?」
アステローペがサロートカの肩に手を置くと、彼女はこくりと頷いて立ち上がった。
「アミエーラさん、アウェッラーナさん、有難うございます」
「い、いいのよ。ちゃんと治ってよかったわ」
「私は診ただけですから」
サロートカは何度も礼を言い、アステローペに手を引かれて作業部屋を出た。エレクトラがお茶の乗ったワゴンを押してついてゆく。
アルキオーネとタイゲタが会釈して出てゆくと、薬師アウェッラーナは、力ある言葉で水にゆっくり命令した。
「清き水 流れ浸み込め 洗い清めよ」
宙に浮いた水が、生き物のように動き、ミシンの上で赤くなったカーテン生地を這う。血染めの部分にすっと浸み込み、すぐ浮き上がった。布から引き剥がされ、抱えられた血の染みが水塊に薄く広がり、すぐに紛れてわからなくなる。
水塊の一方の端が、作業机に散らばる爪の破片を回収した。
「手を開いて下さい」
水塊が、アミエーラの手から血に染まった糸を取る。
「外で焼きます」
アウェッラーナは、台所の勝手口から裏庭へ出た。
宙に浮いた水塊に続いて、アミエーラも外へ行く。
「小石で、土に円を描いてもらっていいですか? 歪んでもいいので、端はしっかり閉じて下さい」
言われるまま小石を拾い、刺繍枠くらいの円を描いた。
薬師アウェッラーナが頷いて、力ある言葉をゆっくり唱える。
「塵芥 吐き出しそこへ 清まれ水よ」
水が円内に不純物を吐き出す。
緑髪の薬師は、庭木の根元で水を解放した。
「アミエーラさん、【炉】は使えるようになりましたか?」
「呪文は暗記しましたけど、実践はまだです」
「じゃあ、どうぞ」
細い落ち枝を拾って渡された。
アミエーラは枝を円の中心に立て、覚えたての呪文を唱えた。
「日輪の小さき欠片 舞い降りよ 輪の内に 灯熱 火よ熾きよ」
円内で小さな炎の輪が踊り、枝に燃え移る。手を離すと当然倒れたが、円から出た部分には燃え広がらない。
アウェッラーナは靴で地面をこすって円と火を同時に消し、アミエーラに微笑んだ。
「大分、魔力の扱いが上手くなりましたね」
「まだ怖くて、一人じゃ使えないんですけど」
「私も、子供の頃はそうでしたよ」
「子供……」
「アミエーラさんはまだ、魔法を習い始めて一年くらいなんですし、そのくらい用心深い方がいいんですよ」
気休めではなく、魔法使いの常識なのだろう。
アミエーラは少し気持ちが楽になった。




