1976.ストレスと酒
「今、難民キャンプにある消毒用アルコールは、すべて私の知人が調達に関わったものです」
「呪医、その知り合いの人に俺がお礼言ってたっつっといてくれよな」
昼食を食べ終えた呪医セプテントリオーが言うと、アケルはにっこり笑ったが、科学の看護師ドルパの一家は怪訝な顔になり、魔法使いの看護師アリウムは目を泳がせ、薬剤師カウルスは眼鏡の奥から緑髪の呪医を睨んだ。
「あのアルコールは、植物から醸造したものではなく、濡首獣と言う魔獣の生き血から抽出して精製したものなのです」
「げ! マチャジーナの沼の奴か!」
アケルが顔を顰める。さすがに呑兵衛だけあって、詳しいようだ。
「経済制裁が本格的に発動する直前、ギリギリで間に合ったものなのです。次の入荷は、まだ目途が立っておりませんので、消毒や魔法薬の調合以外の用途で消費されると、大勢の人が困るのですよ」
「ンなコト言ったって、俺だって困ってんだよ」
アケルが焦げ茶色の瞳を潤ませる。
呪医セプテントリオーは、穏やかな声で聞いた。
「どのような困り事ですか? 私でなんとかなることでしたら手助けしますし、私には無理でも、どなたか力になれそうな人にお伝えしますよ」
「困り事ったって、何もかもだよ」
「生活全般と言うコトですか? エベヌムさんの鼾で寝られないとか」
看護師アリウムが聞くと、同室で暮らす家具職人アケルは、空になった昼食の紙箱を見詰めて言った。
「大工の野郎の鼾で寝られンねぇのもそうだが、何もかもだ」
「えぇ、あれは俺も寝られませんけど」
「内乱中に何もかもなくして、平和ンなって仕事仲間やら呑み友達やらできて、ボチボチやってたのによ。空襲で何もかも焼けちまったんだ。職場も俺が汗水垂らして作った家具も喜んでくれたお客も馴染みの店も何もかも」
アケルが洟をすすり、寝間着の袖で目頭を押さえて言う。
「命からがらここまで逃げて、毎日毎日ロクなメシ出ねぇのに働き詰めでよ。爆弾降ってこねぇのはいいけど、いつバケモンの餌食になるかわかりゃしねぇ。これが呑まずにおれるかってのに酒もねぇとくらぁ。四人も居ンのに部屋に居ンのは寝る時だけで、病院で何かありゃ、あんたらバタバタ起きて、夜中でもなんでも働いて、大工の野郎は鼾がうるせぇし、呑まずにゃいらんねぇのに酒もねぇ。俺ぁ何しに生きてんだよ?」
湖の民であるセプテントリオーには、酒の愉しみは理解できないが、酒浸りになりたい気持ちなら、痛い程わかる。
空襲による心的外傷。大切なものを奪われた喪失。食料不足による栄養失調。人手不足による過労。睡眠不足による体調不良。大勢が近くに居ても関わりが薄い孤独感。空襲とは別の脅威に晒される安全ではない環境。安全な場所へ移動して本格的に生活再建する目途が立たず、将来を見通せないこと――
アケルは力なき陸の民で、毎年老いてゆく常命人種だ。外見からの推定年齢は五十代後半から六十代前半くらい。老齢の域に差し掛かり、加齢による衰えに不安を覚える年頃だ。
例えば、同年代かやや年上の老漁師アビエースには高血圧など持病があり、妹の薬師アウェッラーナが兄の身を案ずる。
力なき陸の民の職人は、身体が資本だ。
健康不安は失職や生活不安に直結する。
魔哮砲戦争は終戦の兆候すらない。ネモラリス共和国に対する国連安保理決議と経済制裁で、先行きの不安は募るばかりだ。
すぐには解決できない問題や、そもそも解決が不可能なことも含まれるが、改善できることもある。
呪医セプテントリオーは、看護師アリウムと目が合った。アケルと同室の男性看護師が小さく顎を引き、そっと家具職人の肩に手を触れる。
「アケルさん。昼間、部屋で一人だと寂しくないですか?」
「病院はヤだぞ」
寝間着姿のアケルがそっぽを向く。
アリウムは微笑を浮かべて言った。
「部屋の戸を少し開けといてもらえば、俺たちが様子見に行けなくても、ボランティアの人に見に行ってもらえますし、ゆっくり寝たい時は閉めてれば、無理に起こさないように言っときますけど、どうです?」
「どうって、どうもこうも、今は病気で寝てなきゃなんねぇんだろ?」
「それはそうなんですけど、日中ずっと眠っていると、夜に眠れなくなって、それはそれでよくないので、えっと、ボランティアの人と世間話などして、あっ、話すのも怠ければ、眠ってもいいんですけど」
薬剤師カウルスがしどろもどろに言った。
「寝転んで本を読むとかでも、あっ、これも疲れない程度にしていただいて」
「本? そんなモンどこにあンだ?」
「集会所にありますよ。絵本から技術書まで色々寄付が」
「えっ? 何それ? 知らないんですけど、いつの間に?」
巡回の呪医セプテントリオーが答えると、看護師ドルパの妹が食いついた。
「いつの間にと申しましょうか……バザーの交換品や、作業の必要に応じてインターネットから印刷して綴じただけのものもありますし、大使館や新聞社、慈善コンサートの呼掛けで集まった寄付などもあって、時期や経路は様々です」
「俺ら、病院のごはん作るのに忙しくて、集会所って行ったコトないんだよな」
ドルパの弟が言い、中学生くらいの妹がこくりと頷く。科学の看護師ドルパは申し訳なさそうに弟妹から視線を逸らした。
「お料理の本ってありますか? できれば、病院用の」
「仲間に寄付の呼掛けを頼みます。他に欲しい本はありますか?」
呪医が手帳を開くと、ひらりと紙片が落ちた。食卓に乗ったのは、幼い字だ。
「危うく失念するところでした。この“つみきのおじさん”は恐らく、アケルさんだと思いますので、お渡ししますね」
紙片を家具職人に差し出す。
「何でぇ? 藪から棒に?」
寝間着姿のアケルは受取ろうとせず、緑髪の呪医をまじまじと見る。
「一昨日、第八区画で五歳くらいの男の子に頼まれました。周囲の大人に聞いたところ、ベッド作りの際に出た端材を積木にしてくれた家具職人さんだと」
「俺はヒマそうな中坊に木切れとヤスリ渡して角を丸めろっつっただけで、積木なんざ作ってねぇ」
アケルが赤くなって横を向く。
「積木の作り方を教えた件へのお礼状なんでしょう。はいっ」
代わりに薬剤師カウルスが受取り、家具職人アケルの前に置いた。
☆難民キャンプにある消毒用アルコール、すべて私の知人が調達に関わったもの……「1848.情報と薬素材」~「1851.業界の連携を」参照
☆濡首獣と言う魔獣の生き血/マチャジーナの沼の奴……「1803.沼地の生き物」「1826.扉の向こう側」「1827.関わり方の差」参照
☆老漁師アビエースには高血圧など持病……「1678.電子式血圧計」「1754.高血圧の対策」参照
☆バザーの交換品……「1599.手に入る教材」参照
☆作業の必要に応じてインターネットから印刷して綴じただけのもの……「1597.不平等を生む」「1599.手に入る教材」参照
☆大使館や新聞社、慈善コンサートの呼掛けで集まった寄付など……「1148.祈りを湖水に」「1595.流出した人材」「1597.不平等を生む」「1600.外国の励まし」「1604.人口比の偏り」「1605.自習できない」参照
☆端材を積木に……「1599.手に入る教材」参照




