1969.研修会の中身
ファーキルは、ホテルの会議室で研修の準備を整える。
このホテルは、フラクシヌス教団アミトスチグマ支部の所有だ。
夏の都北岸に面するパニセア・ユニ・フローラ神殿に隣接し、宿泊客は湖の女神派が多かった。巡礼や結婚式での団体利用や、学会、講習会、説明会などにも使われる。
今朝早く、アミトスチグマ王国医師会から、アサコール党首宛にメールで追加資料が届いた。
ファーキルが取り急ぎ、人数分をマリャーナ宅で印刷し、会場で紙ファイルに追加する。先に研修を終えた第三十四区画の診療所には、モルコーヴ議員が運んでくれた。
研修会への参加は、難民キャンプの区画番号順ではなく、居住する医療者の同意を得られ、診療所を留守にする準備が整ったところからだ。
第三十四区画には現在、アミトスチグマ王国の産官学合同調査隊の拠点がある。
製薬会社が医薬品と栄養補助食品を提供し、警備員三人とネモラリス大使館の駐在武官が、畑や居住区に侵入した魔物や魔獣、野生動物を駆除する。また、森と畑の境界に設置した木柵や土塀の結界を強化した。
魔獣由来の素材は製薬会社と難民キャンプの薬師と職人で分け、野生動物の毛皮と骨、角や牙は警備会社が取り、肉は難民に分配する。
毛皮などは処理が大変だ。
難民の職人は、呪符作りなど、既にある作業で手一杯で、四人の魔法戦士が次々と捕殺する魔獣や野生動物の処理まではできなかった。
未処理の素材を放置すれば、それを扉に魔物が涌く危険性が高い。
警備員は毎日、夕方には一人が帰社して素材などを届け、翌朝早く、難民キャンプに出勤した。
第三十四区画の難民は、気持ち程度だが、食糧事情が改善。栄養失調に起因する体調不良が幾分かマシになった。
製薬会社の薬師ラザヴィーカ、環境省の役人レーシィ、冬の都大学の研究員リグニートも、大森林の奥地で採取した植物や茸などは、各研究所へ送る試料を除き、難民に提供する。
三人が採取した試料の発送準備をする日は、警備員も難民キャンプの居住区に留まり、熱中症患者の冷却などで診療所を手伝ってくれる。
ファーキルは、警備会社がそこまでするよう指示したのか、警備員たちの個人的な厚意か、真意はわからないが、有難いと思った。
第三十四区画の診療所は調査開始後、医療者たちの負担が減った為、研修を受ける決断が早かったのだ。
警備員と駐在武官による魔獣などの駆除は、日を追うごとに範囲を広げ、周辺の第二十四、二十七、二十九、三十、三十二、三十三、三十五区画でも、農作業中の襲撃による負傷者が減りつつある。
第二十八区画では、亡命議員だけでなく、難民たちも、医療者に研修を受けるよう積極的に働き掛けた。
薬師リアーナたちは、難民の説得に根負けしてここに来たのだ。
ファーキルも、応急処置ができるようになった方がいいと思い、今日は力なき民向けの研修に参加する。
会議室は衝立で仕切られ、小学生以下が居ない今回は、薬師、看護師、魔法を使える素人、力なき民の素人に分かれる。
ファーキルは、四種類の資料ファイルを各班の人数分置いた。
素人班には、心肺蘇生法の練習などに使う性別不明の人形も一体ずつある。
参拝と朝食を終え、第二十八区画の医療者とその家族、講師四人が会議室に入ってきた。
「今日もよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「準備、有難うございました」
各講師の席には、ノートパソコンも起動させてある。
短い挨拶を交わしてすぐ、研修が始まった。
ファーキルも力なき民の素人班に加わる。この班の講師は消防士だ。
「皆さんには、応急処置と、避難所での体制構築について学んでもらいます」
避難所内での体調不良者や要援護者の把握、その情報に基づいて医療に繋げる連絡体制と、避難所内でもできる組織的な支援体制を構築できれば、傷病の予防、早期発見、早期治療が可能になると言う。
この班の最年少者は、科学の看護師の息子で、今年で中学三年生になると言う。
ファーキルは本来なら高校生だが、難民とは別の理由ですべてを捨てて来た身だ。勿論、受験などしなかった。
他は、薬師リアーナの娘婿、科学の看護師の息子二人、魔法使いの看護師の妻と姑で、今回は一番多い。最少人数の班は、薬師リアーナと講師の二人きりだ。
「今日の午前中は、避難所……区画内にある丸木小屋毎の名簿作りについて、午後は心肺蘇生法の練習をしてもらいます」
「はい」
紙ファイルを捲る音に続いて、消防士が言う。
「避難所の名簿は、家族単位で書いてもらって、丸木小屋毎にまとめて下さい」
項目は、区画と丸木小屋の番号、呼称、生年月日、性別、魔力の有無と学派、技能や免許、持病とアレルギー、障碍の有無だ。
「誰が何の術を使えるかわかれば、役割分担しやすいです。もうしてるでしょうけど、もっと組織として系統立てて、各個人が持つ力を効率よく活用できます」
難民キャンプに来てから寝たきりになった老人も、湖の民か力ある陸の民なら、【魔力の水晶】への魔力充填作業ができる。
また、丸木小屋に刻まれた【魔除け】や【耐暑】【耐寒】など各種防護の術も発動・維持できる。
どこへも行けないからこそ、みんなを護る力を提供できるとも言える。
「力なき民のお年寄りも、半世紀の内乱を生き抜いて来られた方々ですから、大変な状況を切抜ける知恵や経験をお持ちです」
消防士が暗に「要援護者に区分される者は、単なる足手纏いではない」と説き、難民たちは頷いた。
「アレルギーの情報があれば、食料の配給ミスで体調を崩すのを防げます」
持病や障碍がわかれば、無理にさせてはいけない作業がわかり、負傷や体調の悪化を防げる。他の「支障なくできる作業」を重点的に割り当てればいいのだ。
発作が起きる病気なら、同じ丸木小屋で暮らす全員が対処方法の情報を共有すれば、死亡や悪化を防げる可能性がある。
常用する科学の薬も把握できれば、調達の効率も上がる。
……そう言えば、二年も経つのにちゃんとした名簿、作ってないんだよな。
難民輸送船で夏の都を経由して来た者たちは、ザーパット脳炎などの予防接種を受けた際、アミトスチグマ王国医師会がカルテを作り、取りまとめて政府と情報共有した。
だが、難民キャンプで産まれた子や、先にキャンプ入りした身内や友人、知人などの【跳躍】で来た者には、それすらなかった。
☆産官学合同調査隊の拠点/栄養補助食品を提供……「1923.調査隊の目的」参照
☆薬師リアーナ……「1831.休養日の設定」参照
☆ザーパット脳炎などの予防接種を受けた……「1282.支援の報告会」参照
☆カルテを作り……「1586.呪医の苛立ち」参照
【余談】と言うか参考文献。
災害時要援護者対策(内閣府 PDF)
http://www.bousai.go.jp/taisaku/hisaisyagyousei/youengosya/
避難行動要支援者の避難行動支援に関する取組指針(平成25年8月)
避難行動要支援者対策及び避難所における良好な生活環境対策に関するブロック会議等(平成25年度)




