1956.飢鬼蜂の大群
五日目の午後、最初に気付いたのはレノだった。
「何か、耳鳴りみたいな、変な音しないか?」
「え?」
クルィーロは幼馴染に聞かれて耳を澄ました。薬師アウェッラーナも、護りの敷石の上から薬草に伸ばしかけた手を引っ込めて、立ち上がる。
低く唸る地鳴りのような音が微かに聞こえる。
地震かと思ったが、足元に振動はない。
森の奥へ向かう道の西では、素材屋プートニクと地元の狩人が、仕留めたばかりの火の雄牛を解体中だ。道路保全作業の四人は、荷車から降ろした新品の敷石を設置するのに忙しく、音に気付かない。
クルィーロは道の東に目を転じた。
木立の間に黒い雲のような塊が見える。
「うわ、なんだアレ?」
「えっ? イヤぁッ! 蜂!」
アウェッラーナが緑髪の頭を抱えてしゃがむ。
「蜂?」
背後を見張るラゾールニクは、東を見て息を呑んだが、すぐ我に返って叫んだ。
「う、飢鬼蜂だ! プートニクさん!」
地鳴りのように聞こえたのは、一匹が雀くらいもある大型蜂の羽音だ。何匹の群なのか、森の一画が暗く見える。羽音が大きくなるにつれ、小鳥が鋭い警告の声を発して上空へ逃れ、小動物があちこち逃げ惑う姿が増えた。
「水! 【操水】でテントみてぇなモン作ってすっこんでろ!」
プートニクが叫び、保全作業員が顔色を失って作業を中断する。林業組合の職員が、作業服のポケットから【無尽の瓶】を出したが、落としてしまった。藪に転がり落ちた【瓶】が、外見の容量以上の水を垂れ流す。
クルィーロも蓋を開けようとするが、手が震えて思うようにゆかない。レノが横から【無尽の瓶】をひったくり、あっさり蓋を開けてクルィーロの手に返す。礼を言う余裕もなく、早口に呪文を唱えた。
一区画……護りの敷石十六枚分を水壁で囲み、天井を閉じる。
外に居るのは、素材屋プートニクと緑髪の狩人だけだ。
飢鬼蜂の群が間近に迫る。複眼の間に触覚とは別に角が見えた。尻から突き出た針には毒があり、大きな顎は、刃物のように動物の肉を切り裂いて喰らう。
……こんな大群、【不可視の盾】じゃムリだよな?
「太陽の子 樹の敵よ 地より生る根を張るもの損なわず
肉焼き焦がし 高光る天日此処へ 傍生喰らい尽くせ」
プートニクは、すぐ近くで力ある言葉を叫んだが、水壁越しの声は遠い囁きに聞こえた。
術者の眼前に荷車の車輪のような火輪が現れる。プートニクが大剣を薙いだ。火輪が宙で横倒しになり、膨らみながら回転して蜂の大群を襲う。
火のついた飢鬼蜂が逃げ惑い、一呼吸の間もなく森の地面へ落ちてゆく。
「風よ、燃え上がる氷の上を渡れ」
狩人も別の呪文を唱えた。地面に手をついた術者の足元から冷気の柱が起ち上がり、鋸刃型の軌跡を描いて地表を走った。
低い位置を飛ぶ飢鬼蜂が腹や翅を切り裂かれ、全身を霜に包まれて落ちる。
プートニクは再び火輪の術を使うが、群がバラバラになってあまり倒せない。
「天地の 間隔てる 風含む 仮初めの 不可視の壁よ
触れるまで 滾つ真水に 姿似て ここに建つ壁」
ラゾールニクが呪符四枚を敷石の四方に貼り付け、水壁の内側に【真水の壁】を建てた。必死の形相で頭上を指差す。
「クルィーロ君、上! 上に水、分厚く!」
「は、はいッ!」
宙に【壁】は建てられない。壁にした水を【操水】で天井に集め、アウェッラーナの隣にしゃがんだ。
……落ち着け! 慌てるな!
クルィーロの魔力では、長時間維持できない。上着のポケットから小袋を出し、【魔力の水晶】を一個握る。
「飢鬼蜂の針は、【鎧】でも防げないんです」
「えッ?」
「飢鬼蜂専門の駆除屋さんでも、毎年、何人も入院するんです」
薬師アウェッラーナが、足元の石材に震える声を落とした。
飢鬼蜂が数匹、こちらに来る。水壁を易々と突破したが、【真水の壁】を薄青く染めただけで離れた。
不吉な羽音に大顎を鳴らすカチカチと言う音が加わり、クルィーロの背筋を冷たい汗が伝う。
顎が鳴る度にこちらへ数匹ずつ寄って来ては、【壁】に体当たりして離れた。
林業組合の職員が、アウェッラーナの肩を軽く叩く。
「薬師さん、なるべく安い薬草、何本かもらえませんか?」
「え? どうするんです?」
「あいつら、草を焼いた煙をイヤがるって聞いたコトがあります」
「倒せるワケじゃないけど、牽制くらいにはなるかも」
「わ、わかりました」
アウェッラーナは傷薬になる薬草を一掴み袋から出した。
林業組合の一人が【操水】で水分を抜き、もう一人が作業服の肩からボールペンを抜いて石材に円を描く。【炉】で点火した薬草を振って火を消し、【操水】で束の端を水に持たせた。
クルィーロは生きた心地がしないが、飢鬼蜂が離れたのを見計らい、水天井の一部を細く開けた。充満した煙が流れ、飢鬼蜂が一斉に離れる。
プートニクは火輪を盾のように使い、蜂の攻撃を防ぎつつ倒すが、狩人は角の突撃を受けて傷だらけだ。
群の大半は、先に倒した火の雄牛の死骸に集る。
「煙ー!」
「煙、使って下さい!」
作業員たちが叫び、狩人が水塊に握られた薬草の束に気付いた。
角で受けた傷に飢鬼蜂の大顎が喰らいつき、返事をしかけた声が悲鳴に変わる。水塊が狩人の足元に薬草の束を置き、彼の肉を齧る蜂を包んで引き剥がした。狩人は両腕で目を守るだけで精一杯だ。
クルィーロが隣に立つ作業員の袖を引く。
「すみません。水の維持、代わって下さい」
「あ、あぁ、君はどうするんだ?」
「謳います。レノ、アウェッラーナさん、【癒しの風】!」
レノが懐を探り、緑髪の薬師が顔を上げる。
狩人の肉を齧る飢鬼蜂が、一匹、また一匹と離れてゆく。
三人は視線を交わして立ち上がった。
「青い翼 命の蛇呼んで 無限の力 今 ここに来て
翼 はたはたと 癒しの風を送る ひとつの風を……」
僅かに開けた水天井の隙間から、歌声と魔力が流れる。狩人は血塗れだが、再び氷の術を放ち、まだ周囲を飛び交う飢鬼蜂を蹴散らした。
肉を喰らって逃げた飢鬼蜂が一回り大きくなる。
クルィーロは動揺を押し殺し、呪歌【癒しの風】を謳い続ける。
「……泣かないでね この痛みすぐ癒す 今から心こめ癒すから
命 繕って 苦しみ去って 元気になった 見て ほら……」
ラゾールニクがレノの手を取り、【魔力の水晶】を挟んで握り直した。これで当分、魔力切れを心配せずに謳える。
プートニクは焼き、狩人は凍結させて、少しずつ飢鬼蜂を減らしてゆく。
二人の周囲から一匹も居なくなる頃には、狩人の傷が全て塞がった。
火の雄牛を喰らう群に目を遣り、クルィーロは息を呑んだ。
雀くらいだった飢鬼蜂が、鴉並に膨れ上がり、魔獣の死骸は粗方食い尽くされて白い骨が見える。
「的は大きい方が当てやすいんだ」
プートニクは不敵に笑い、クルィーロの知らない呪文を早口に唱えた。
視界が白く塗り潰され、思わず息を止めて目を閉じる。
蜂の羽音が聞こえない。
異様に静かだ。
恐る恐る目を開けると、火の雄牛の死骸があった場所には、何もなかった。藪も樹木も何もかもが白い灰に変わり、生きて動くものの姿はひとつもない。
「火の雄牛の角は惜しいコトしたが、命あってのなんとやらだ」
プートニクが、薄青く染まった【真水の壁】を大剣の柄で叩き壊した。
「薬師さん、すまん。一カ所刺された」
アウェッラーナは息を呑み、大急ぎで手当てを始めた。




