1951.黒山羊の夫婦
濃紺に染まった【真水の壁】に遮られ、何が起きたかわからない。
だが、魔法障壁に守られる非戦闘員八人は、誰一人として動くどころか、声も出せなかった。
「あッ、クソッ!」
「こいつ、まだ!」
プートニクと狩人の声に続いて、何かが地面に突き立つ音が聞こえた。
鈍い打撃音と同時に濃紺の【真水の壁】が消え去った。
素材屋プートニクが大剣の柄頭で打って崩したらしい。
「知恵の黒山羊は倒したけどよ、切った尻尾がまだ動いてて、かすって」
プートニクが足元を見下ろす。
狩人の一人が片足を押さえて土の地面に横たわる。唇の血色がやや悪く、呼吸が浅い。
薬師アウェッラーナは無言で頷き、敷石から手を伸ばして狩人の首筋に触れた。
「ちろちろと 白き鱗の触れる者 ちろちろと 白き鱗の舐める者
白き翼を水に乗せ 明かせ傷 知らせよ病
命の解れ 詳らか 綻び塞ぐ その為に」
体内に入った毒素は少量だが、既に呼吸困難の兆候があり、出血毒による血液の変質も進行中だ。
狩人を仰向けに寝かせ、鞄から神経毒用の解毒薬を出す。
顎を軽く持ち上げ、【操水】で一回分の魔法薬を流し込んだ。
「痺れ解き 命の水脈は 敏く行く
今開く 偽の鍵以て 塞がれし 時刻む門」
この魔法薬は、単に飲ませただけでは効力を発揮しない。発動の呪文【律動の鍵】を唱え、まずは呼吸を確保した。
「あ、息しやすい!」
狩人が跳ね起きる。呼吸が回復した途端、唇に赤みが戻った。
「まだです。もう一種類の毒が」
「えッ?」
「これを一瓶、全部飲んで下さい」
出血毒用の解毒薬の蓋を開けて手渡すと、狩人は素直に一気飲みした。
再び彼の首筋に手を触れて【見診】を唱える。
「もう大丈夫です」
「おっと、こっちはまだダメだ。すっこんでな」
プートニクの視線の先にもう一頭、知恵の黒山羊が居る。まだ距離はあるが、先程のように【跳躍】で一気に詰められたら終わりだ。
ラゾールニクが、空になった【無尽の瓶】を上着のポケットに捻じ込み、代わりに呪符を出す。【操水】で水塊を宙に浮かせたまま、落ち着いた声で【真水の壁】を掛け直した。
「天地の 間隔てる 風含む 仮初めの 不可視の壁よ
触れるまで 滾つ真水に 姿似て ここに建つ壁」
「番だ。子連れじゃないだけ、まだマシだな」
プートニクが、首と胴が分離した魔獣の死骸の前で血に濡れた大剣を構えた。土の地面に赤黒い血溜まりが広がってゆく。
見える範囲に蠍の尾はない。誰かの攻撃で灰になったようだ。
……この首、まだ生きてたりしないわよね?
薬師アウェッラーナは、目を閉じた黒山羊の生首から目を離せなかった。
知らない老婆の声が、遠くで力ある言葉を叫ぶ。
「想い磨ぎ 光鋭き槍と成せッ!」
閃光と同時に土の道と向き合う【真水の壁】が、一撃で濃紺に染まった。
「げッ!」
ラゾールニクの【操水】が乱れ、水塊が崩れる。早口に呪文を唱えて立て直し、いつでも【祓魔の矢】を放てる体制を整える。
「あ、あの、【真水の壁】って、後、何枚あります?」
作業員が小声で聞く。
ラゾールニクは、視界を遮る濃紺の【壁】を見詰めて首を横に振った。
「魔獣が聞いてるから、今は言えない」
「諸の力を束ね 光矧ぎ 弓弦を鳴らし 魔を祓え!」
「力得よ 石よ意志持ち 飛び立て敵へ 飛礫となりて 降り注げ」
老婆の声が力ある言葉を唱え、プートニクの詠唱が重なる。
濃紺の【壁】の向こうで閃光が瞬き、何かが弾けた音が複数同時に聞こえた。
「え? スゲー……こんなのできるんだ」
解毒されたばかりの狩人が、山刀を拾って茫然と呟く。蠍の尾がかすった傷からは、まだ血が滲む。
「な、何があったんです?」
クルィーロが不安な声で聞く。
「魔獣が【光の矢】を何本も同時に飛ばしてきたけど、あの人の【礫弾】がぶつかって相殺した」
もう一人の狩人の説明が【真水の壁】の背後を回り込み、右手の木立へ抜けた。攻め手の狩人は、大木を遮蔽物に魔獣への接近を試みる。
老婆の声が、アウェッラーナの知らない呪文を唱えた。
思わず目を閉じたが、しばらく待っても何の物音も聞こえない。無音が却って恐ろしくなり、目を開けて見回す。
知恵の黒山羊は、いつの間にか右側面の木立に居た。まだ距離は遠い。先にそちらへ回り込んだ狩人の口が動いた。だが、声が聞こえない。遠目にも、狩人の顔から血の気が引くのがわかった。
……えっ? ど、どうしたの?
プートニクが大剣を手に木立の中を走る。
無防備に駆ける彼を魔獣が放った【光の槍】が襲った。元騎士は、避ける素振りもなく直撃を食らう。
「……!」
アウェッラーナは思わず彼の呼称を叫んだが、声にならなかった。
……え? 何これ? まさか、音を消されてる?
何らかの準備を施した上で、一帯の空間に【消音】を掛けたのだとすれば、知恵の黒山羊は、喰らった人間の知恵を単に己の物とするだけでなく、人間を罠に掛ける程に高度な知能があることになる。
藪に倒れ込んだプートニクが、大剣を支えに身を起こし、地を蹴って駆けだす。彼も展開済みの【不可視の盾】で防いだようだが、次はない。
プートニクが接敵を急ぐ理由がわかり、アウェッラーナは肌が粟立った。
知恵の黒山羊は森の奥へ駆けだした。
攻め手の狩人も、山刀を抜いて走る。
足場の悪い場所では、四ツ足の獣が有利だ。彼我の距離がどんどん開いてゆく。遠くで狩人の声が聞こえた。
……術の圏外に出られたのね。
魔法が使えるようになれば、走って追いつかなくても倒せるだろう。
ホッとしたアウェッラーナの視界の端に黒い影が映り、反射的にそちらを向く。
いつの間にか、土の道に面した濃紺の【真水の壁】が消え、荒い息を吐く魔獣の姿があった。黒山羊の口が笑みの形に歪んだ気がする。
ラゾールニクが息を呑み、失効した【操水】が足元を水浸しにした。
馬より大きな魔獣が口を開け、山羊らしからぬ鋭い牙を見せつける。
魔獣に最も近いクルィーロが【祓魔の矢】を握る右手を突き出した。
レノ店長が剣を両手で握り、魔獣に体当たりする。
無音の空間で、魔獣の左目とクルィーロの右腕から血飛沫が上がった。
悲鳴を上げたらしく、知恵の黒山羊が左目を剣に貫かれたまま口を大きく開け、首を左右に振る。魔獣の血が飛び散り、アウェッラーナたちに降り掛かった。
☆この魔法薬は、単に飲ませただけでは効力を発揮しない……「0934.突破された壁」参照




