0002.老父を見舞う
年が明けてあっという間に一月が過ぎ、明日からは二月が始まる。
今日も父の反応は薄い。
末娘は姉に気付かれないよう、こっそり溜め息をついた。
姉は病床の父に、昨日、家に帰ってから、今朝、病室に来るまでのことを楽しげに話す。
老いた父は、窓の外を見詰め、何も言わない。
景色を見ているのか、単に顔を向けているだけなのか。日に焼けて深い皺が刻まれた顔は、今日も木彫りのように動かなかった。
毎日、その繰り返しだが、姉は飽かず挫けず、父に話し掛けた。
認知症。老人に多い病気だが、働き盛りの人が発症することもある。
毎年、老いて行く常命人種には多いが、成長後はゆっくり老いる長命人種には稀な病気だ。
「ラーナちゃん、見て、ほら、お父さん、笑ってくれた」
姉が弾んだ声で末娘を呼ぶ。
アウェッラーナは、父と同じ窓の外を見ていた。ベッドの左側の丸椅子を立ち、右側へ回る。父の表情が変わったようには見えなかった。姉のイレックスと視線を合わせることもなく、窓の外を見ている。
病院の窓からはゼルノー市の街並が見えた。
再建された街は、どの家もまだ新しい。三十年経った今も更地が多く、人口もあまり回復していない。
どこかよそよそしい街並の向こうで、ラキュス湖が輝いていた。
冬の薄日が、夕凪の塩湖を鏡のように見せる。
「今日はいいお天気だもんねぇ」
アウェッラーナは、すっかり老けこんだ姉に言って、窓辺に立った。六人部屋は満床だが、他に見舞い客の姿はない。
半年前に入院するまで、父はラキュス湖で漁をしていた。
父はここ五年で物忘れが酷くなった。探し物が増え、見当たらない物は何でも泥棒の仕業にするようになった。
元々必要なこと以外、滅多に喋らない寡黙な漁師だったが、更に口数が減った。
親戚三人と兄と父の五人で、一隻だけ残った船を湖に出し、季節毎に決まった魚を獲る。内戦を生き残った一族みんなで、生活を支え合っていた。
今は、船の名義を兄のアビエースに変え、甥を加えた五人で漁に出る。
寡黙だった父は、入院する一年前から、全く喋らない日が増えた。緑々としていた髪は、すっかり白くなっている。
……歳のせいで枯れるって、こういうことなんだ……
アウェッラーナは父から目を逸らし、傾き始めた日を眺めた。
一族は、ラキュス湖畔にのみ住まう少数人種の「湖の民」だ。
鮮やかな緑髪は、多数派の陸の民よりも多くの銅を必要とすることによる。年老いると銅の吸収率が下がり、髪の色が抜け、白くなる。
アウェッラーナの父も、髪が雪のように白い。八十代半ばという年齢は、常命人種であるが故に晩年と言える。
七つ上の姉も、アウェッラーナとは年子の兄も、髪の色が大分薄くなり、日が当たると黄緑に見える。
末娘のアウェッラーナは、一族で唯一の長命人種だ。六十歳を目前にしてまだ、十五、六の少女のような若さを保つ。
湖の民は約三分の一が、何事もなければ千年近く生きる長命人種だ。
アウェッラーナの家系には、七世代前に生まれた「大叔母さん」がいたが、先の内戦で亡くなった。母も長命人種だったのかも知れないが、アウェッラーナが幼い頃に亡くなったので、わからない。
今、一族の長命人種はアウェッラーナ一人。
内戦を生き延びた父の世代は、余命幾許もない老人だ。
兄姉、いとこも……いや、後から生まれた甥姪ですら、既にアウェッラーナより老けている。
百年もしない内に、父や叔父叔母は勿論、兄姉、いとこも、他の親戚も皆、死んでしまう。
何もなくても、時間が命を奪ってしまう。
アウェッラーナは、暮れなずむ空を見上げた。
……これなら、明日もいいお天気ね。
幼い頃、兄と一緒に天気の読み方を父に教えてもらったことを思い出した。
「大陸のアーテル軍や、陸の民の王国軍を相手に、随分、荒っぽいこともしたもんだ」
平和になってから、親戚がこっそり教えてくれたが、本人は何も語らない。あの頃の父はまだ若く、自前の船を駆ってネモラリス自衛軍や湖水の義勇軍に協力していたらしい。
父は敵襲のない日、この時ばかりは口数多く様々なことを教えてくれた。
万が一、一人きりになっても生きてゆけるようにと言うのが理由だった。
「生き残りたきゃ、他人の顔色見るより、空の顔色を窺え」
空を見上げて、天気の読み方を教えてくれた。
雲は毎日、姿を変え、空の色は一日として同じ日がない。時々刻々と移ろう空と湖の波で、その日と翌日の天気を予想した。
天気は【飛翔する燕】学派の術を使えば、確実にわかる。術者の魔力によっては一月先までわかるが、父は魔法ではなく、漁の経験に基づいて空を読んだ。
「父ちゃん、スゲー! 魔法なしで当たるって、スゲーよ」
「父さん、すごーい!」
外れる日もあったが、父の天気予報は、魔法なしにしては精度が高かった。
アウェッラーナは兄と二人で、父が言った通りの空を見上げ、天気を言い当てる父を見上げた。父は照れたのか、恥ずかしそうに笑った。
「俺の予報も【飛翔する燕】の術も、万能じゃない。誰かが術で空をいじれば、外れる」
「父ちゃん、空をいじるって、何?」
兄が不安そうに聞いた。
アウェッラーナにも兄の不安がうつり、父の服の裾をきゅっと掴んだ。
「天気を変える術があるんだよ。雨の日を晴れにしたり、晴れの日に嵐を呼んだりなんだかんだ……」
「やだよ。嵐なんて」
「お船、沈んじゃう」
ベソをかく子供たちの頭をポンポン叩き、父は笑って言った。
「そんなもん、どんだけ強い魔力が要ると思ってんだ? 空はこんだけ広いんだぞ?」
「でも……」
「空をいじくるったって、俺の知る限り、町ひとつ分、小雨降らせた奴がいるだけだ。そんな心配すんな」