1942.労働人口流動
ラゾールニクは、【不可視の盾】なら使いこなせると言う。
クルィーロと葬儀屋アゴーニも、ランテルナ島の拠点で呪医セプテントリオーに教えてもらい、今ではどうにか使えるようだ。
老漁師アビエースは、午前中の練習だけで、かなり上手くなった。
……同じ魔法を使っても、才能の差って出るんだな。
レノは昨日、アナウンサーのジョールチと一緒に情報収集した。
デレヴィーナ市内の商店街で食料品の価格や品揃え、飲食店の営業状況などを中心に見て回る。
魔法薬の素材屋だけでなく、食料品店や飲食店も休廃業が多かった。営業中の店舗も、品揃え豊富とは言い難い。
だが、価格の高騰は、一頃のレーチカ市やギアツィント市のようにパン一斤が開戦前の五十倍などと言うコトはなく、庶民でも買えなくはない範囲で収まる。
八百屋は休廃業が少ない。郊外の農家からしっかり仕入れられるらしく、品揃えもそこそこだ。
魚屋はほぼ全店が営業中で、品揃えがよく、値段も安かった。買物客は魚屋を中心に人垣を作る。
「あ、安いですね。今夜、塩焼きとムニエル、どっちがいいですか?」
「どちらも魅力的ですね……おススメはどれですか?」
ジョールチが魚屋の大将に聞く。
「ウチはどれも獲れたてで新鮮だからな。どっちでも旨いぞ」
「じゃあ、漁師さんたちは、普通にお仕事できてるんですね」
「林業やら絶光蝶の養殖やら、森で色々採ってくる仕事の奴らが、危なくて森へ行けなくなったからって、こっちに流れて来てな」
「狩人や警備員が政府軍に徴用されたからですか?」
魚屋はニヤリと笑った。
「なんだ。ジョールチさん、わかってんじゃないか」
「素材屋さんたちが、仕事にならないとボヤいているのを小耳に挟みまして」
「そうなんだよ。それで、森で素材採る奴や廃業した素材屋が、漁師の手伝いやら干物の加工や何や、水産方面に流れてな」
人材も水産物もダブついて、賃金と販売価格の下落を招いた。
それでも、無収入よりマシだからと、低賃金でも今ある仕事に人が集まり、収入の乏しい世帯が安い商品に群がると言う悪循環を生んだ。
デレヴィーナ市は、林業や絶光蝶の養殖、動植物や魔獣由来の素材採取など、主要産業は森林に依存するものが多い。
隣のマチャジーナ市は、沼地での養殖が主要産業だ。警備員など、護衛の人手が僅かで済む為、収入が減少した世帯が少なく、こちらよりマシだった。
だが、いずれも、開戦後は観光や飲食などの業種が大打撃を蒙り、地域経済に暗い影を落とす。
ネモラリス共和国に対する経済制裁発動後は、輸出入もままならず、このままでは経済破綻が視野に入って来る。
客たちは、少しでも安くて大きい魚を求め、商品台を見詰めて長考する。
魚屋の大将が群がる客を見回し、しみじみ言った。
「給金は安くても、賄いが出るとこが人気だな」
「そうでしょうね」
ネモラリス共和国では、物々交換が主流なので、まだある程度は持ち堪えられそうだが、モノが著しく不足すれば、この限りではない。
二人は鮮魚店で人数に対して三分の一だけ購入し、次の店へ移動した。
買った生魚は【保冷布】に包んで運ぶので、食中毒の心配はあまりしなくていいが、七月初旬の日差しは、力なき民のレノにはキツい。Tシャツが、たちまち汗で肌に貼り付いた。
力ある陸の民のジョールチと地元の湖の民は、服の【耐暑】で守られ、商店街内の見える範囲で、こんな大汗をかく者は他に居ない。
街路樹の木陰に入り、ジョールチが【操水】で汗を流してくれた。レノは持参した水筒から水を飲み、塩を少し舐めて一息つく。
「今日はそんなに暑いのですね。大丈夫ですか?」
「こんくらいなら、大丈夫ですよ。汗を流してもらえてすっきりしましたし……きっと森の中の方が涼しいんでしょうね」
「本当に行くのですか?」
ジョールチがレノを気遣う。
「詳しい話はできてないんですけど、プートニクさんには何か考えがありそうなんで、それを知りたいなって」
「元騎士とのことですから、力なき民を守りながら戦う心得はあるでしょうが、今は素材屋さんです」
「現役じゃないから、勘が鈍ってるかもってコトですか?」
「それもありますが、理由があるなら、きちんと説明してくれてもよさそうなものです。危険を伴うのですから」
「ラゾールニクさんが話を振って、プートニクさんはちょっと考えてから、それに乗った感じでしたよ。林業組合に行ったのギリギリだったんで、詳しく聞く暇がなくて」
「そう言うコトだったのですか」
デレヴィーナ市林業組合が、急に訪問した他所者の話に飛びついたのは、絶光蝶の為だった。
絶光蝶は、古い時代に異界から来てこの世に定着した虫型の魔物だ。
幼虫は、同じくこの世に定着した水知樹などの葉を食べ、この世の肉体を構築しながら成長する。
蛹から孵った成虫は、周囲の光を悉く吸い取って絶やし、傍目には闇の塊が飛び回るように見える。水知樹の樹液や、腐肉の汁などを食べるが、魔力のある生物の生き血も啜る。
デレヴィーナ市のように森の一角を囲い込んで養殖する地域もあるが、各地に野生の個体を捕獲する狩人が居る。
絶光蝶は、生きている間、その姿が全く見えない完全な闇に包まれるが、死ぬと光を吸収する力を失い、見えるようになる。
淡く輝く虹色の翅は個体差が大きく、蒐集家に高値で取引される場合がある。だが、一般的には、呪符用インクや、糸や布用の染料素材だ。
デレヴィーナ市では、林業と木工が盛んだが、呪符用インクの溶媒となる水知樹の樹液や、絶光蝶の鱗粉の販売や加工も、それに次ぐ収入源だった。
「異界の木が生えている場所には、魔物や魔獣が現れやすいので、くれぐれも気を付けて下さいね」
「はい。呪符とかなるべくたくさん持って行きます」
レノは、昨日ジョールチに与えられた注意を思い出し、剣技の型を繰り返す手に力を籠めた。
☆ランテルナ島の拠点で呪医セプテントリオーに教えてもらい……「0261.身を守る魔法」「354.盾の実践訓練」参照
☆価格の高騰は、一頃のレーチカ市……「1402.大都市の様子」参照
☆パン一斤が開戦前の五十倍……「780.会社のその後」参照
☆マチャジーナ市
沼地での養殖……「1803.沼地の生き物」~「1805.食用蛙と大鯰」参照
収入が減少した世帯……「1767.商店街の会議」参照
開戦後は観光や飲食などの業種が大打撃……「1834.北側の商店街」参照
☆ネモラリス共和国に対する経済制裁……「1842.武器禁輸措置」~「1844.対象品の詳細」参照
☆ラゾールニクさんが話を振って/林業組合に行ったのギリギリ……「1917.組合との交渉」参照
☆絶光蝶
存命中の様子……「439.森林に舞う闇」参照
野生の個体を捕獲する狩人……「501.宿屋での休息」参照
布用染料を作る様子……「522.魔法で作る物」参照




