1924.字を識る効能
アミトスチグマ王国から救援物資の梱包材として届いた古新聞も、例に漏れず識字教室の教材になった。
識字教室は、リストヴァー自治区東教区内の各小中学校に設けられ、貧困故に学びの機会を失った大人たちに改めて学びの場を用意する。
大学生を中心とする講師たちは、意味などは措いて、まず、受講生の名前を表す文字だけを記号として繰返し書かせ、手に覚えさせた。
自分の名前を書けるようになれば、役所の手続きを自分でできるようになる。
住所は代筆でも構わないが、署名は手や視覚に障碍がない限り、自署でなければ認められない。
これまでは、どん底の困窮世帯こそが、役所で手続きできず、給付金などの受給や、医療費の減免措置なども受けられなかった。
そもそも文字が読めない為、制度の存在すら知らない者が大多数を占めた。
文字を読み、文意がわかるようになれば、役所の広報や新聞から、暮らしをよくする情報を得られるようになる。
道具の取扱説明書を読めるようになれば、間違った使用法による事故や故障を防げる。怪我が減れば、医療費が抑制され、就労可能な日数が減らず、不慮の事故による減収を抑えられる。
文字の形を一通り覚えた者には、労災事故防止マニュアルを教本にして、一歩進んだ学習会をした。マニュアルを使って文章の読解と安全教育を同時に行う。
その結果、労災事故による工場稼働率の低下は、学習進度に反比例して減少。日雇いの工場労働者とその家族が食いっぱぐれる日も減った。
バラック街だった頃に比べると、飛躍的に栄養状態が改善し、壊疽性口内炎で顔と生命を失う患者が、この半年間では一人も発生せずに済んだ。
かつては、栄養不良などで衰弱した者が口腔粘膜を細菌に破壊され、生きながら腐って頬肉に大穴を穿たれた。壊死した組織を苗床に魔物や雑妖が発生し、一家が食い殺されることもままあった。
魔物が涌かなくても、顔を失う程に重症化した者の予後は悪く、助かることの方が稀だ。
栄養状態が改善しただけで、病死と魔物による捕食が大幅に減った。
バラック街だった頃の生活が、悪い夢だったように遠ざかってゆく。
「移動放送局とリャビーナ市民の慈善演奏会」
隣の教室から大学生の声が聞こえ、クフシーンカは物思いから引き戻された。
識字教室の講師を引受けた大学生が、単語を区切って再び読み上げる。
「いどう・ほうそうきょく・と」
「いどう・ほうそうきょく・と」
受講生が声を揃えて続いた。
クフシーンカの胸の奥で、心臓が跳ねた。
隣の教材は、運び屋が持って来た号外だ。
「えっと、“移動”は後で説明するんで、先に“放送局”。これ、自治区にも国営放送の支局ありますね。あの放送局、この字です。ほ・う・そ・う・きょ・く」
「ほ・う・そ・う・きょ・く」
文字をひとつずつ指し示しながら読み上げたらしい。受講生の声も、一音ずつ区切って続いた。
「次の“と”は、『君と僕』とか、ふたつ以上あるものを並べる時の“と”です」
大学生は、単語のひとつひとつを丁寧に解説しながら文字の書き順を説明する。
「この“と”は、いろんなとこで使うんで、先にこれ書けるようにしましょう。今から黒板に書くんで、書き方をよく見て覚えて、手許の磁石板の画面いっぱいに大きく書いて下さい」
磁石板は、星界の使者が、子供たちの学習用に送ってきた文房具だ。
砂鉄と乳白色の粘液が詰まったノート大の薄いプラスチック箱で、すり硝子のような半透明のプラスチック板内部には、細かい方眼が引いてある。
磁石のペンで方眼入りの画面をこすると、砂鉄が方眼に詰まり、黒い文字や絵が透けて見える。
画面の下にあるツマミを左右に動かせば、画面の裏から磁石の棒が砂鉄を底へ引き寄せ、元の半透明に戻る仕組みだ。
ノートと鉛筆のように使い減りすることなく、何度でも文字を練習できる。
紙のノートは、「上手く書けなかったら勿体ない」と萎縮する者が少なからず居る。だが、この磁石板が来てからは、失敗を恐れず、書いては消してをどんどん繰返せるようになった。
識字教室の受講生たちは、反復練習しやすくなり、次々と文字を覚えてゆく。
クフシーンカの裁縫教室の受講生にも、他の時間帯に識字教室へ通う者が何人も居る。彼らは、自分の名前が書けるようになった時、喜び勇んでクフシーンカに報告した。
「字がわかって、やっと地に足がついた気がします」
黒板に書いてみせた文字は、まだ子供のように拙いが、間違いはなく、きちんと読める形だった。
「あらぁ、ほんの一週間で、こんなに書けるようになったんですのね」
「他にするコトないんで、教室が両方休みの日も学校へ来て、校庭に棒きれで書いて稽古してたんです」
黒板に書いた三人は、揃って頷いた。
「それから、仮設の掲示板、貼紙がちょっとだけ読めるようになって、ゴミ収集の日、覚えなくてもわかるようになったんです」
「まぁ、もう曜日の字まで読めるようになったんですの」
「七種類全部じゃないですよ。ゴミの日と関係ある月・水・金だけです」
「それでも、これで間違えなくなるのですから、大したものよ」
手縫いの説明書を読解できるようになった者たちは、裁縫教室へ顔を出す日数が減った。通学時間を縫製に充て、完成品を売って幾許か生活費を稼げるようになったのだ。
☆識字教室……「1577.大人への教育」「1578.炊事場の視察」「1585.識字教室の案」参照
☆労災事故防止マニュアル……「1718.労災事故対策」参照
☆運び屋が持って来た号外……「1874.不鮮明な写真」「1875.示された選択」→「1882.送られた種子」→「1884.最小構成単位」参照
【余談】磁石板
昭和の知育玩具と思ったら、令和でも現役でした。




