1907.祝日制定理由
「神官の仕事は、冠婚葬祭や施療院の運営とか色々あるけど、一番重要なのは、神殿の……祭壇の維持管理と、魔力を女神の【涙】である青琩へ送ることよ」
元神官の運び屋フィアールカは、西神殿の祭壇前で足を止めて振り向いた。
キルクルス教の司祭レフレクシオと向かい合い、ポケットから【魔力の水晶】を取り出す。湖の民の掌で【水晶】が淡い輝きを宿した。
「各神殿の祭壇も魔法陣よ。魔力を籠めた【水晶】や宝石類を捧げると、その魔力を吸収して青琩へ送るの」
キルクルス教の司祭が、恐る恐る祭壇に近付き、フラクシヌス教の元神官と並んで立つ。
ラキュス湖を模した水場。中心に据えられた岩と樹木は、スツラーシの岩山とフラクシヌスの秦皮を表す。
元神官が掌を傾けると、魔力を含んだ【水晶】が水へ転がり落ちた。底に到達した瞬間、祭壇全体が淡い光を放つ。【魔力の水晶】ひとつ分の祈りと力はすぐに尽き、祭壇は元の闇に戻った。
移動販売店プラエテルミッサのみんなと参拝したのは、昼間だったので気付かなかったが、信者が【水晶】を捧げる度に同じ輝きを放つのだろう。
「アーテル軍の空襲で、ゼルノー市とか、ネーニア島の神殿がたくさん破壊されました」
ロークが共通語で言う。
振り向いたレフレクシオ司祭の表情は硬い。
「防壁も壊されて、魔物や魔獣が空襲犠牲者の遺体を喰らって強くなったので、駆除が済むまで住民が帰還できません」
「魔力の供給が減れば、それだけ水の生産量が減るし、封印の効力も弱まるの」
「この地が再び、砂漠化する……と?」
レフレクシオ司祭の声が、微かに震えた。
フィアールカが、満足げに微笑む。
「ご名答。フラクシヌス教の神殿を壊したり、魔法使いを排除しないなら、力なき民がキルクルス教に改宗しても、別にいいんだけどね」
元星の標シーテツが俯いた。
「旧ラキュス・ラクリマリス王国時代には、その方針に基づいて、神々の祝日が定められたの」
「神々の祝日……ですか?」
レフレクシオ司祭は、水を湛えた祭壇に目を遣った。
「フラクシヌス教は、封印に携わった偉大な魔道士たちを神格化したのが始まりで、多神教なの。神々の祝日は、キルクルス教も含めて、他の人の信仰をお互いに理解し合う為の祭日だったのよ」
クラウストラが、フィアールカの説明に頷いて、タブレット端末を操作した。
深夜の神殿に音楽が響き渡る。
「神々の祝日の為の聖歌メドレーは、その祭日の為に作られた曲よ」
幾つもの楽器が、それぞれの役割を果たし、異なる音色でひとつの楽曲を織り上げる。
司祭と元星の標は何も言わず、耳を傾けたが、キルクルス教の聖歌に差し掛かると、顔色が変わった。
ユアキャストに公開した音源は、リャビーナ市民楽団の演奏だ。
二人の驚愕と困惑を置き去りにして、三十分余りある曲が終わった。
フィアールカの静かな声が、深夜の神殿に染み込むように響く。
「ラキュス・ラクリマリス王国は民主化後、政教分離して、信仰の自由を憲法に明記して、神々の祝日を廃止したの」
「それで、二百五十年くらい神々の祝日の為のメドレーも演奏されなくなって、当時はレコードとかなかったから、百年足らずで、この曲を知ってる常命人種って居なくなったの」
クラウストラが言うと、シーテツが反射的に聞いた。
「全然? 全く? 一人も知らないって?」
「知ってるの、音楽史の研究者くらいなものね」
レフレクシオ司祭が蒼白な顔で呟く。
「では、旧王国時代、キルクルス教徒が神政の権力者から弾圧を受け、力なき民が圧政に苦しんだと言う話は」
「誰から聞いたの?」
元神官の声が石壁に冷たく反響する。
「文献……大聖堂に居た頃に読んだ共通語の文献で……複数の本に書いてありましたが、神々の祝日のことなど一行も触れていませんでした」
「それって、いつ頃書かれた本かわかる?」
「いえ……そこまではちょっと」
「民主化後の本なら、著者が知らなかった可能性がありますよね」
ロークが確認すると、魔女二人は当然の顔で、キルクルス教徒二人は歯を食いしばって頷いた。
「当時の力なき民が、神政による治世をどう受け留めてたかなんてわからないけど、少なくとも、キルクルス教の信仰は認められてたわ。フラクシヌス教団とキルクルス教団はそこそこ交流もあったし」
フィアールカが淡々と語る。
実年齢は不明だが、少なくとも、半世紀の内乱時代には神官だった。彼女にとって、民主化と民族自決思想の流入による分断は、教科書に載った歴史の一場面ではなく、自身が経験した事実なのだ。
レフレクシオ司祭が苦しげに声を絞り出す。
「民主化したことで、多数派の意見が通りやすくなり、少数派のキルクルス教徒が不利な立場に追い込まれる法案が可決、成立してしまったと言うのですか?」
「私は政治家や役人になったコトがないから、その辺についてはあんまり言えないけど、半世紀の内乱前の議席は、どこの地方も人口比の通りだったわ」
アーテル地方では力なき陸の民が多数派を占め、ネモラリス島では湖の民、ネーニア島とフナリス群島では力ある陸の民が多数派だった。
国会では、湖の民と力ある陸の民が拮抗し、力なき陸の民の大半はフラクシヌス教徒。キルクルス教徒は泡沫扱いだ。
キルクルス教徒を含め、力なき陸の民を保護する法案は幾つも可決したが、それはフラクシヌス教団の力によるところが大きい。
この地では、魔力を持たない者は、自力で身を守れない。
生命・身体の安全……基本的人権の根幹を守る為の法整備は、民主化した新しい国でも必要だった。
「魔法使いの目には、それが力なき民の優遇政策に見えたし、力なき民は社会的な不利益……生存に関わるレベルの不利を補う当然の権利をそんな目で見られるのは、心外だったでしょうね」
「民族自決思想が流入したせいで、お互いの不満と対立、分断が深くなっ……」
「あ! 大変! もうこんな時間!」
クラウストラがレフレクシオ司祭の声を遮り、端末を向けた。
午前三時十二分。
「三時半にさっきの漁師さんと待合わせなの! 急いで!」
黒髪の魔女クラウストラは、レフレクシオ司祭の手首を掴むと、挨拶もそこそこに駆けだした。
☆移動販売店プラエテルミッサのみんなと参拝……「542.ふたつの宗教」「543.縁を願う祈り」参照
☆神々の祝日の為の聖歌メドレー……「0295.潜伏する議員」「310.古い曲の記憶」「1035.越えられる歌」参照




