1906.信仰の多様性
レフレクシオ司祭が、元星の標シーテツを気遣う。魔力が発覚してランテルナ島へ逃れた男は、やや落ち着きを取り戻した。
「明日、聖典を見ればわかるわ……今夜は司祭様にフラクシヌス教の神殿を見学してもらおうと思うんだけど、大丈夫かしら?」
「異教徒である私が立入ってもよろしいのでしょうか?」
寝間着姿で寝台に腰掛けたレフレクシオ司祭が、遠慮がちに聞いた。元神官フィアールカが苦笑する。
「この宿泊施設も、西神殿の敷地内にある付属施設なんだけど?」
「えっ?」
司祭と元星の標シーテツが身を縮めた。
フィアールカが流暢な共通語で説明する。
「フラクシヌス教は、キルクルス教みたいに信仰の誓いとかないし、否定や侮辱さえしなければ、来る者拒まずよ」
「来るもの拒まず……異教徒でも構わないのですか?」
「我ら水の同胞……異教徒でも誰でも、この世の生き物はみんな、水なしでは生きられないからよ」
「それは、そうですが……」
「水を与えるかどうか、信仰や国籍、魔力の有無なんかで対応を変えたりしないでしょ」
「それが……フラクシヌス教の教義なのですか」
レフレクシオ司祭が身を乗り出す。
ロークは驚いた。
「え? フラクシヌス教がどんな教えか、知らなかったんですか?」
「恥ずかしながら、勉強不足です。まさか、アーテル領内からはアクセスできないとは知らず、現地の土着宗教は、赴任後に調べようと思っておりました」
「神殿の浮彫で説明するけど、見る?」
フィアールカが共通語と湖南語で聞くと、元星の標シーテツが、恐る恐る聞き返した。
「こんな夜中に行ってもいいのか?」
「今夜だけ、特別に許可もらったから大丈夫よ。一人や二人増えたって」
「迷惑じゃなかったら行くよ」
ロークは荷物をどうするか迷い、結局、持ってゆくことにした。
クラウストラが、【灯】を掛けたボールペンを手に先頭を歩く。
拝殿の入口で、フィアールカが石造りの台座と大皿を示す。
「夜中だから片付けてるけど、ここには【魔力の水晶】を山盛り置いてるの」
「盗まれないのですか?」
「手癖の悪い人が居ないワケじゃないけど、小粒だから」
日中は参拝者が多く、目撃者も多い。こっそりポケットに入れても割に合わないのだ。
元神官のフィアールカは、参拝の手順を共通語で簡単に説明した。
湖の民と力ある民は、台座から空の【魔力の水晶】を一粒だけ取り、握って魔力を充填しながら祭壇の間へ歩く。力なき民は、予め充填されたものを用意し、台座には空の【水晶】を置く。そして、どちらも祭壇で祈りと魔力を捧げて帰る。
「日中は参拝者がいっぱいで、浮彫をゆっくり眺めるなんて無理だけど、神殿によって違うから、違いを楽しみにあちこちの神殿を巡る人も居るわ」
「神話の浮彫が神殿によって異なる? そんなことがあり得るのですか?」
キルクルス教の司祭レフレクシオが、そんな馬鹿なと言いたげに声を高くした。
フラクシヌス教の元神官フィアールカは、落ち着き払った声で応じる。
「フラクシヌス教には、キルクルス教のように明文化された聖典がないの」
「えッ? 聖典なしで、どのように信仰を維持するのです?」
レフレクシオ司祭が、信じられないものを見る目を緑髪の運び屋に向ける。
フィアールカは拝殿の通路に数歩入って振り向いた。
「歴史的な事実の概要が合ってれば、細かいコトは気にしないの」
「それは、どう言う意味ですか?」
「私たち長命人種は、何事もなければ千年近く生きるから、実際に経験した人たちが、親しい親族や何世代も離れた遠い子孫、その時々の友人知人に伝え続けて各地に広まったの。伝言ゲームみたいなものだから、地域や家系によって少しずつ伝承に違いがあるけど、重要な部分の事実は大筋で同じよ」
レフレクシオ司祭が追いつき、フィアールカと向かい合う。
「神話の基になった事実とは」
「今から説明するわ」
フィアールカは、クラウストラから【灯】を掛けたボールペンを受取り、通路の浮彫を照らした。
西神殿の浮彫は、ネモラリス建設業協会が発行した「すべて ひとしい ひとつの花」の絵本とほぼ同じ内容だ。
元神官フィアールカが、歩きながら共通語で解説する。クラウストラは、シーテツの傍らで湖南語訳を囁いた。
「印暦紀元前五千五百年頃、後に旱魃の龍と呼ばれる強大な魔獣が出現して、現在は湖底に沈んだ地域の大半が砂漠化したの」
「魔獣……」
「科学文明国では、七千年以上も前のコトは、殆ど確認できないかもしれないけど、こちらでは魔法の鏡【鵠しき燭台】を使えば確認できるし、急激な砂漠化と突然水没したことの科学的な証拠も、地質調査で残ってるわ」
「い、いえ、疑ったワケでは」
フィアールカは、異教の聖職者に微笑して続ける。
「大勢が討伐を試みて帰らぬ人となり、飢えと渇きでこの地域の生き物はどんどん命を奪われてゆく」
魔法の淡い光が、罅割れた大地に横たわる人や獣の骨を描いた浮彫を照らす。
「でも、ついに五人の魔道士が、旱魃の龍の討伐と封印に成功したわ。フラクシヌス、パニセア・ユニ・フローラ、スツラーシ、クリャートウァ、プートニクよ」
「フラクシヌス……」
フィアールカが戦いの場面で足を止め、レフレクシオ司祭と元星の標シーテツは壁面の浮彫を見上げた。
「旱魃の龍の肉体を滅ぼした後、乾きの魔力が【魔道士の涙】と同じ形で残ったから、それを封印したの」
パニセア・ユニ・フローラは自らを焼いて、大地を潤す魔力を籠めた【涙】となった。フラクシヌス、は秦皮の大樹となって根を張り、乾きの魔力を封印する。スツラーシは、誰も触れぬよう自らを岩山と化して禁域を作り出した。
クリャートウァが、後に青琩と呼ばれるパニセア・ユニ・フローラの【魔道士の涙】に魔力を補充する魔法陣を作り上げる。また、彼らを弔い魔力を注ぐ儀式を遺族と共に定めた。
プートニクは遙か南の地からの来訪者で、儀式の制定後、故郷へ帰った。
「それが、フラクシヌス教の成立と、湖の民のラキュス・ネーニア家と陸の民のラクリマリス家の興りよ。スツラーシとクリャートウァは、その時点で身内が死に絶えてたみたいで、伝承がないわね」
「科学文明国では、王権を正当化する作り話だと思われそうですね」
「科学と考古学の証拠もあるんだけどね」
シーテツは呆然と通路を見回す。
「王都ラクリマリスは全体が巨大な魔法陣で、都内に居るすべての人の魔力をほんの少しずつ集めて、青琩に注いでいるの」
「では、一時的にネモラリス難民を受容れたのは」
「破壊された神殿の分、少しでも多くの魔力を回収したいからよ」
フナリス群島は小さな島の集まりだ。
急激に増加した人口を長期に亘って養う余力はない。
「ラキュス湖周辺地域にあるすべての神殿は、信者の魔力を集めて青琩へ送る魔術装置なの」
「魔力を……集めてどうするのです?」
フィアールカは、レフレクシオ司祭の質問を背に祭壇の間へ足を踏み入れた。




