1903.一週間の猶予
運び屋フィアールカは、大きな籠をふたつ抱えて無人島に戻った。
六月下旬とは言え、王都ラクリマリスの湾内に浮かぶ離れ小島は、ラキュス湖からの風が強い。
テントから出た途端、身体のぬくもりを吹き飛ばされ、ロークは身震いした。籠をひとつ受取り、急いでテントに引っ込む。
運び屋が籠の蓋を開けた。
中身は、具がぎっしり詰まったキッシュとサンドイッチだ。
クラウストラがテントの外へ出て、すぐ水を連れて戻った。運び屋が水を半分受取り、浄化する。
ロークは籠からティーバッグとマグカップ四個を出して並べた。
「手を洗うから、こうやって前に出して」
クラウストラが実演し、ロークは素直に従ったが、元星の標は動かない。
宙に浮いた水塊が、まずクラウストラ自身の手を洗い、汚れをテントの外へ捨ててから、ロークの手を洗った。
運び屋フィアールカは、【操水】で香草茶を淹れる。残った湯を薄く広げて冷まし、自分の手を洗い清めた。
「さっき、岩とか触ったでしょ。汚い手で食事したら病気になるわよ」
フィアールカが、再浄化した水を元星の標に近付ける。男は諦めた顔で手を前に出した。
「魔法で水を浄化して、手とか洗えたら衛生状態をよくできて、感染症に罹る心配を減らせるの。一人洗う度に浄化し直すのを忘れないようにね」
クラウストラが説明したが、男は目を逸らした。まだ、魔法の勉強をする決心がつかないらしい。
「別に包んでるのが、私の分」
緑髪のフィアールカが、緑色の薄紙で包まれたものを取る。
「他は陸の民が食べても大丈夫よ」
「有難うございます」
「いっただっきまーす」
ロークとクラウストラはサンドイッチを手に取ったが、元星の標は動かない。
「思ってた以上に有益な情報をくれたから、これも情報量の内よ」
フィアールカが、緑色のキッシュを飲み下して言う。
男はやっとサンドイッチに手を伸ばした。恐る恐る一口齧ると、無精髭が伸びた頬を涙が伝った。
「俺……何でこんな……」
クラウストラが香草茶のマグカップを男の前に置いた。
テント内に充満した清涼な香気でも抑えられない感情が、後から後から涙を溢れさせる。
三人は、元星の標が泣くに任せ、黙々と食事を続けた。
三人が夕飯を終える頃、やっと男が泣き止んだ。フィアールカが【操水】で涙と鼻水塗れの顔を洗う。
「あなたは常命人種みたいだけど、別に今すぐ決める必要はないわ」
緑髪の運び屋が言い、黒髪の少女クラウストラが宙で香草茶を濃く煮出す。
元星の標は、落ち着きを取り戻した声で言った。
「いつまでも施しを受けるだけじゃダメなんだ」
「いい心掛けね。でも、身の振り方を考えるのに判断材料が足りなかったら、身動き取れないでしょ」
「何をどう調べて、どうやって生活すればいいか全然……」
男は素直に頷いた。
「そうねぇ……基本的な話、魔法使いに本名を教えちゃいけないし、相手に聞いてもいけないの」
「何だそりゃ?」
クラウストラの説明に打てば響く勢いで疑問が飛び出した。
「本名は、その人の存在との結びつきが強いから、魔法による支配を受けやすいの。悪い人に支配されないように呼称を名乗るのよ」
「魔力での力比べで、自分の方が強かったら支配を振り解けるけど」
運び屋が言うと、男は一口齧っただけのサンドイッチに視線を落とした。
「この先ずっと……そんな怖いとこで暮らさなきゃなんないのか」
「ネットのハンドルネームみたいなものよ」
クラウストラの一言で、男の顔から霧が晴れた。
「彼は一週間、王都で過ごすわ。あなたさえよければ、一緒にあっちへ渡って魔法文明圏の暮らしをもっとしっかり見せてあげられるけど、どう?」
「八日目、どうなるんだ?」
元星の標が不安を口にした。
「あなた次第ね。ランテルナ島へ戻りたければ、送ってあげるし、王都に留まりたければ、知り合いに口利きしてあげるけど」
「タダじゃないんだろ?」
疑り深げな目が緑髪の運び屋に注がれる。
「星の標に関して、あなたが知ってるコトや、他にランテルナ島へ渡った知り合いが居るなら、その人の情報も」
「考えさせてくれ」
「私が居ない時に話したくなったら、彼か彼女……あなたがイヤでなければ、西神殿の神官に伝えてくれてもいいわ」
男は無言で頷くと、サンドイッチにかぶりついた。
久々にありついたまともな食事で、表情が和らぐ。
食べ終えた男が、すっかり落ち着いた様子で聞く。
「迎えの船は夜中だって言ったが、何でそんな時間に?」
「もう一人が、夜中でないと来られないからよ」
「えっ? 夜は危ないだろ?」
男が眉根を寄せる。
「湖上封鎖が厳しくて、さっきみたいに湖を渡れるの、許可証の所持者だけで、他の人は運べないの」
「えぇ?」
運び屋の説明で、男は何とも言えない顔になった。
「王家の使い魔がラキュス湖を巡回してて、許可証のない人も船も航空機もみんな沈めるから、湖に入っちゃダメよ」
「ひぇッ!」
男が身を縮める。
ロークは、クラウストラがわざわざテントの入口を内陸側へ向けた理由がやっとわかった。
「アーテルがさっさと戦争をやめれば、湖上封鎖も解除できるんだけど」
「何か、全然よね。魔獣と戦争して、使えない援軍まで呼んだ癖に」
クラウストラが呆れた声を出すと、元星の標は怪訝な顔をした。
「援軍?」
「あれっ? 知らない? ポデレス大統領がバルバツム連邦のデュクス大統領に泣きついたの」
「新聞、毎日拾えたワケじゃないからな」
「それよりあなた、呼称がないと不便よね。覚えやすくて呼びやすくて、自分らしいの。何か考えてみたら?」
緑髪の魔女が話を変え、元星の標の中年男は三人を見回した。
「参考までに……私はフィアールカ」
「クラウストラよ」
「ロークです」
「菫と閂と角? ……じゃあ、俺は更紗だ」
「シーテツね。覚えとくわ」
元星の標のテキスタイルデザイナーは、自分で付けた呼称をもう一度声に出し、生まれ変わったような顔で微笑んだ。
☆魔法使いに本名を教えちゃいけない……「0015.形勢逆転の時」参照
☆王家の使い魔がラキュス湖を巡回……「749.身の置き場は」「869.復讐派のテロ」「1216.ケーブル地図」参照
☆使えない援軍……「1852.援軍の戦闘力」参照
☆ポデレス大統領がバルバツム連邦のデュクス大統領に泣きついた……「1843.大統領の会談」参照




