1901.星の標の内情
軽い目眩のような感覚に続いて、風景が一変した。
「なッ……こ、ここは?」
元星の標が辺りを見回した。
ロークも初めて見る景色だ。
目の前には湖水が広がり、左右は自然の岸辺で、やわらかな砂に大小様々な岩が転がる。
ラキュス湖からの風で、運び屋の緑髪がふわりとなびいた。
「ここは王都ラクリマリス。湾に浮かぶ小さな無人島よ」
運び屋フィアールカが指差す方には、対岸の湾に沿って広がる街並が見えた。
片側は既に夜に入り、もう一方は黄昏の光を浴びて輝く。一際大きく見える白い建物は、王都のあちこちにあるフラクシヌス教の神殿だ。
「湾内にも結界があって【跳躍】では移動できないから、迎えの船が来るまでここで待って」
「あなたがランテルナ島へ渡った経緯を教えて下さい」
ロークが言うと、元星の標は不安げに目を泳がせた。
「俺も、今からラクリマリスに渡るのか?」
「食事くらい奢るわよ」
「毒じゃないだろうな」
「私たち湖の民用の料理は、銅がたくさん入ってるから、あなたたち陸の民が食べたら中毒を起こすわね」
「ホ……ホントに毒なのか!」
後退った男は、石に足を取られて転んだ。
「湖の民専用のお店は“陸の民お断り”って貼紙してるし、両方出す店も、厨房を分けてるし、メニューにちゃんと書いてあるし、よっぽどのことがない限り、陸の民の口には入らないわ」
「住み分けって程じゃないけど、区別はしてあるんで」
ロークが助け起こしながら言うと、男は腰をさすって頷いた。
「あなた、歳は幾つ?」
「……三十六だ」
「じゃあ、魔法も、湖の民も、フラクシヌス教も知らないのね」
「悪いか」
「別に。でも、自分が持ってる魔力のコトくらい知った方がいいんじゃない?」
対岸では、家々に灯が点り始めた。光源の大半は魔法の【灯】だ。
運び屋フィアールカが、汀からやや離れたところに小石で円を描き、力ある言葉をゆっくり唱えた。【簡易結界】だ。
「迎えが来るまで、もうしばらく掛かるから、こっち来て」
緑髪の魔女が簡単に術の説明をした。
岩陰から雑妖が滲み出るのを視て、男は円に渋々入る。
三人はそれぞれ【簡易結界】内の岩に腰を下ろした。
「で、何があったか聞かせてちょうだい」
「どこから話せばいいんだろうな」
男は、星が瞬き始めた濃紺の空を見上げ、ぽつぽつ語った。
星の標への関わり方は、アーテル共和国内でも、地域や家庭、個人によってまちまちだ。
農村地帯では自警団と同義で、加入率は百パーセントに近い。
魔獣が出現すれば、銀の弾丸を籠めた銃で村と農地を守る。戦えない者ばかりの世帯でも、装備代の供出や啓発活動には参加する。
星の標本部の思想については、よく知らない者が多い。
地方在住者にとっては、銀の弾丸などの調達先でしかないのだ。
魔法使いと共存した時代を知る老人たちは、時折、あの頃は魔法で村全体を守ってもらえてよかったなどと愚痴をこぼすが、本部の者や都会へ出た若者たちの前では口を閉ざす。
内輪だけの思い出話としては語られるが、「現在の必要性」については、魔獣が身近に存在する農村地帯でも、口に出せない空気があった。
地方都市では、自警団と思想集団が入り混じり、加入率は地区毎に異なる。
森林に近く、魔獣の多い地区では、自警団としての加入率が高くなる。魔獣が少ないか、滅多に出現しなかった地区では加入率が下がり、加入者は思想に傾倒した者の割合が高くなる。
首都ルフスやイグニカーンス市などの大都市では、ほぼ思想集団だ。自警団の活動に携わる者と、力ある民や魔術の排除を行う者に分かれる。
「俺は、ウンダ市の自警団だ。でも、爆弾とか作る資金や、弔慰金の臨時徴収があったら、何も考えずに払ってた」
「爆弾と弔慰金……ランテルナ島の爆弾テロ資金?」
運び屋フィアールカが聞くと、元星の標は緑髪の魔女から目を逸らして頷いた。
「弔慰金って実行犯の遺族に支払われるんですか?」
「そうだ」
ロークが聞くと、男は何を当たり前のことをと言いたげに肯定した。
「じゃあ、貧しい人が弔慰金目当てで志願したりとか」
「それは……わからん」
有り得そうな可能性を口にすると、男はロークからも目を逸らして俯いた。
フナリス群島の空は晴れ渡り、満天の星々が地上の湖に仄かな灯を落とす。
「迎えの船って、いつ来るんですか?」
「夜中よ。話が終わったら、晩ごはん取りに行くから、ちょっと待ってて」
「わかりました」
船がなく、【跳躍】も弾かれるのにどうやって対岸へ渡るのか。ロークにはわからなかったが、フィアールカのことだ。何か手段があるのだろう。
「で、ウンダ市の自警団が、どうしてランテルナ島に居たの?」
運び屋が改めて聞く。
「去年の秋頃から、ウンダ市内でも魔獣がいっぱい出るようになって、人手も銀の弾丸も足りなくなって来たんだ」
「アーテル本土じゃ、どこもそうみたいね」
「まぁな。自警団もできる限り頑張ってたんだが、今年に入って、ランテルナ島の駆除屋を雇う人が増えて来たんだ」
当初は密かに雇う者が多かったようだが、口コミで評判が広まった。
土魚出現以降は、形振り構わず、業者の奪い合いが続く。
「俺らも、庭に土魚が出て家から出られなくなった人の救助とか、全力でやってた。門から玄関まで鉄板敷いて、足腰弱った年寄り背負って連れ出したりとか」
「梯子を掛けて二階から出すのは見たコトあります」
「本土へ行ったのか」
元星の標が、ロークに不審の目を向ける。
「俺、力なき民なんで、時々おつかいに出されるんです」
「化け物がウロウロしてンのにか」
男が呆れた顔で運び屋を見る。
「護符付きの服着て行くんで、あなた方よりマシですよ。ホラ」
ロークは上着の裾を捲って、フィアールカにもらった護符付きの肌着を見せた。【簡易結界】を出て、陰から雑妖が滲み出す岩に近付く。不定形の穢れは、ロークからさっと退いた。
「魔獣も、土魚くらいなら寄せ付けません」
「無原罪の無力な民を守る……魔法」
緑髪の魔女フィアールカが何気ない調子で聞く。
「あなた、キルクルス教の聖典、全部読んだコトある?」
「全部?」
「聖職者用のもネットに上がってたけど」
「えッ? いや、自前の一般信者用しか」
男が困惑する。
「よかったら、明日、実物を見せてあげるけど、どう?」
「魔女なのに司祭様と知り合いなのか?」
「旧王国時代は、キルクルス教の信仰も認められてたから、神殿の書庫に寄付されたのが今も残ってるのよ」
「そんな……そんなコトがあり得るのか」
男が愕然と呟く。
「嘘だと思うんなら、自分の目で確かめてみればいんじゃないですか?」
「ちょっと……考えさせてくれ」
ロークが聞くと、男は返事を保留して先程の続きを語った。
「先月……老夫婦を助け出す最中、庭に敷いた鉄板の外側から土魚が跳びついてきて、爺さんが齧られたんだ」
作業中の駆除業者が、道路を挟んだ向いの民家から駆け付け、二人を救助した。
「で、救助代は『水晶を握れ』ってその場に居たみんな渡されて、俺のだけ光ったんだ」
元星の標は、下唇を噛んで項垂れた。




